私は嬉しくなって、一夕、丸谷夫妻を我が家に招待する気になった。丸谷さんはよほど電話嫌いとみえて、住所録に電話番号を載せていないので、連絡するのに手間どったが、昭和五十年三月九日に、ご夫妻で私の家に見えた。その夜のお客は、團伊玖磨夫妻、青井忠雄夫妻、嶋中鵬二夫妻、それに糸川英夫先生であった。玉蘭筍が出たし、スイスのフォンデューに似た山鶏鍋(キジ肉の油揚げ)が出たし、茶烟鯧魚(マナガツオの紅茶燻製)も出た。丸谷さんが一番気に入ってくれたのは、素餃子といって、肉を使わずに、小松菜と筍と椎茸を包んで蒸したギョウザであった。
それまで私は丸谷さんとは面識がなかった。なにしろ文壇の集まりにはいつもズボラをして、丸谷さんが「年の残り」で芥川賞を受賞したときも顔を出さなかったので、作品の上でしかお目にかかったことはない。しかし、『たった一人の叛乱』は面白かったし、エッセイなど読んでも、博覧強記のさまがうかがわれる。なによりも、角度のよさというか、視点にユニークさがあると思った。
この晩の集まりがきっかけになったのかどうか知らないが、間もなく中央公論社から『食は広州に在り』を中公文庫に組み入れたいと申し込んできた。私は丸谷さんが『文藝春秋』で推薦してくれたのだから、解説は丸谷さんにお願いしてみてくれと頼んだ。やがてできあがってきた文庫本のうしろについた解説を見ると、私が想像もしていなかったような角度から、私の本の内容が指摘されていた。丸谷さんは、「邱永漢は亡国の民である」「国が亡んだとて、そんなことくらい何でもないではないか。大事なのは個人がこの一回限りの生を楽しむことで、それにくらべれば、植民地がなくなろうと、国土が占領されようと、軍隊が消え失せようと、財閥が解体されようと、どうでもいい話ではないか。彼はそういう趣旨の手紙を、亡国の民の先輩として、われわれ後輩に書きつづけたのである」と書いていた。事実、私が『食は広州に在り』を執筆した当時は、パスポートも持たず、生まれ故郷の台湾へも戻れず、さまよえるユダヤ人のような心境であったから、それがそのまま文章の上に現われていたのであろう。ちょうどこの文庫本が出された前後から、食べ物の本がよく読まれるようになり、私の一連の食べ物についてのエッセイはかくれたベストセラーズとでもいうか、一回の再版が二万冊とか二万五千冊とかいった調子で売れるようになった。私は戯れに、「まさか食べ物の本を書いて、飯が食べられるようになるとは思わなかった」といったが、食べ物の本が売れるからといって私がその道の専門家になったわけではない。食べ物の話は、食べることに情熱をもった人たちが楽しみながら書くべきものであって、料理人の料理の本ではないのである。だから「食通」と呼ばれることには抵抗があるし、朝から晩まで、年柄年中、食べ物の話を書かされることも潔しとしない。現に私がこの文章を書いているのも、『日本経済新聞』に「食指が動く」を連載しはじめたのも、数えてみれば、実に二十年ぶりなのである。
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