リクルートの江副さんと森稔さんは、慶応で森さんの同級生だった。いまでこそリクルートの意味のわかる人がふえたが、当時は社名どころか、目をパチクリさせる人が多かった。学生新聞の広告欄を買い占めて社員募集の広告を大企業にしてもらったら、バカ当りをしたという記事が、ジャーナリズムを賑わしはじめたばかりの頃であった。江副さんの話によると、最初は文無しだったので、同級生の森さんに頼んで、第五森ビルの屋上に小屋を建ててもらって、そこを本拠にして商売をはじめたのだそうである。
「で、スタートは順調でしたか?」
と私がきくと、江副さんはいたずらっぽい表情になって、
「森ビルというだけあって、雨が降ると、本当よく漏りましたよ」
と茶化した。そういうところから出発したリクルートであったが、「就職」といういままでに考えられなかったテーマを業務内容とする新しい分野を企業化することに成功して、全国的に駅が見えるようなところに、つぎつぎとビルを建てたり、ホテルを建てたりするようになった。
そういえば、「駅のそばの丸井」も、月賦屋からクレジットに脱皮し、年間二千六百億円の売上げをする利益率の抜群に高い一流企業に成長した。緑屋よりも小さな店だった丸井が割賦販売業界の王者にのしあがったのは、基礎をきずいた先代社長よりも、よく時代の動きをとらえて、積極的に拡張政策をとった二代目の腕に負うところが大であると私は見ている。
当夜の料理は、西洋料理だから、オニオン・グラタン、舌ビラメのムニエール、ビーフシチューにサラダといった、どこにでもあるようなメニューだった。しかし、それを個人の家でコックを使ってやるのだから、
「この家は面白いですね。うちの父なんかサラリーマン生活が長かったものですから、いまもサラリーの範囲内で暮らしているのですよ」と森さんは、自分の家の台所の内輪話をしてくれた。おそらく私の何十倍も何百倍もお金持ちの人が金利の計算ばかりして暮らすのでは味気ないなあ、と私は少しばかり胸を撫でおろした。
しかし、西洋料理のコックは長つづきしなかった。競馬に夢中になって、買物のピンハネを平気でするようになったから居づらくなって、間もなくうちから出ていってしまった。
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