気分を一新するには、何よりも転居が一番効果的である。だいぶ前から、私は新しい家を建てることを家内に約束していたが、次々とビルを建てるのに追われていたので、遅れ遅れになっていた。原宿のビルのあと、渋谷に外人用マンションを建て、つづいて新宿に建てた事務所ビルも一段落したので、やっと南平台の隣の青葉台というところに百二十坪余りの土地を買い求めて、高山慎さんという建築家にスペイン風の白い壁の家を設計してもらって、昭和四十四年四月四日に引越しをした。どうして引越日を正確に覚えているかというと、偶然にも四並びの日だったからである。
うちの女房はさして経済観念のある方ではないが、料理がうまいことのほかに、(一)不動産の値打ちを予測する能力と、(ニ)年齢に応じた生活の変化に対処する能力という特技をもっている。
この家へ移るときも、彼女は、「この家は十年しかもちませんよ」といった。十年たつと、三人の子供は嫁に行ったり、嫁を娶ったりして、それぞれ独立するから、離合集散が起こるというのである。私たちにはそれほど引越し趣味があるわけではないが、東京へ移ってからも、五回引越しをした。だから十年以内にまた引越しをしても少しも不思議ではないが、家内の予想通り長女も長男も独立してこの家から出て行ってしまった。にもかかわらず、いまも私たちがこの家に住んでいるのは、その後、台湾へ帰るようになり、台北、台南、福岡、伊那、ロサンゼルス、高雄とあちこちに手を拡げて家やビルを建てるようになり、事実上、引越しをするのとあまり違わない変化の中で生きてきたからである。
家をつくるとき、私たちはよくお客をするから、食堂と台所は大き目にしておいて下さいと、建築家にたのんでおいた。建築家もそのつもりで設計してくれたと思うが、実際に使ってみるとやはり狭かった。建築家は私たちが専属のコックをおいたり、いちどきに何十人もお客をしたりすると予想していなかったからである。それでも家を建てるとき、私が主張したことは大半受け容れられ、かなり理想に近い家ができあがった。私の主張とは、(一)どのドアの高さも必ず二メートル以上にする。(二)下駄箱をやめて靴部屋をつくる。(三)四季の衣服がそのまま収納できる、つくりつけの洋服ダンスをつくる(四)洋風であっても寝室には全部、障子とフスマをとりつける。(五)セントラル・ヒーティングを採用するが、万一に備えて各室にガス栓がきているようにする。(六)応接室と食堂をオープンにして多人数のパーティにも使えるようにする。(七)台所のガス台は強い火力が出せるように、中華料理のプロ用のガス台にする。これらはいずれも、習慣になっている日本の住宅の建て方を当世風の生活に合わせるための工夫だったのである。

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