その文六先生が私の家へ来る気を起こしたのは、『読売新聞』で「バナナ」という華僑をモデルにした小説を連載しはじめたからであった。昭和三十四年といえば、日本が高度成長経済に突入してから既に四年目、セカセカと金のために皆が駆けまわるようになった頃で、金儲けにかけては大先輩であり、金を持てば、どういう生活をすべきか、悠々迫らない生活の仕方をしている華僑を主人公に選ぶことによって、文六先生はおそらくワサビのきいた諷刺小説を書こうと思ったのであろう。華僑の連中は、金を儲けることにかけては抜け目がないが、同時に、エピキューリアンのところがあって、金を持つと、美食に耽る。文六先生は、この点に関しては、共感をもっていたらしく、『あまカラ』誌にもときどき食べ物のエッセイを書いていたし、横浜の中華街の裏通りにある海員閣のような穴場にも行くときいていた。ケチと食べ物にお金を惜しまないところは、フランス人と中国人に共通点があるから、文六先生にはよく理解できたのであろう。だから、主人公の華僑は、金持ちで、度量が大きく、かつ美食家と三拍子揃っていなければならない。その中の美食という一点については、おそらく連載をしている読売新聞文化部の連中が、「邱さんのところへ行くに限る」とすすめたのであろう。読売新聞の文化部の人の中には檀一雄さんに連れられて私の家へ来た人もあるが、来ていない連中でも、檀さんからかなり洗脳を受けていたと思う。 ちょうど半年ぐらい前に、私は多摩川べりの家から東横線の都立大学駅前の平町にある新居に引越したばかりであった。今度の家も、敷地はわずか七十五坪しかなかったが、鉄筋三階建のモダンな建物で、外から入ると、一階にガレージと玄関があり、狭い玄関を入って階段をあがると、応接間と食堂になっている。安岡章太郎にいわせると「軍艦のような」家だそうであるが、まだ建てて一年ほどの新しいのを私は、自動車修理工場をやっている社長さんから買った。その社長さんは、修理工場が区画整理にひっかかってどこかに引越しをしなければならなくなったが、新築したばかりの自宅と競馬うま六頭の中のどちらかを手離さなければならなかったときに、自宅の方を処分したのであった。 東京へ移り住んで、一時、貧乏生活を強いられた私たちであったが、この二年間にせっせと貯金をしたので、古い家を処分したお金と、不足分は月一パーセントの利息を払って友人から二百万円融資してもらい、やっとこの家を手に入れることができた。前住者にとっては必ずしもいい家ではなかったが、この家は私にとってはゲンのいい家だった。引越してから半年もしないうちに、私は借りた金をかえせるだけの貯金ができたが、友達がすぐかえさなくてもよいというので、そのお金を使って生まれてはじめて株式投資をやった。それがきっかけになって、私は株式投資の大先生(?)になり、また株でもうけた金でビルを建てるようになった。
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