そうしたら、その原稿がまだ雑誌に載らないうちに、台湾で国民党の軍隊がアメリカ大使館を襲うというレイノルズ事件が起こった。新聞の報道だけでは、何のことだか、日本人にはさっぱりわからない。それというのも、戦後の台湾には蒋介石に従って大陸から渡ってきた約二百万人の外省人と呼ばれる人たちと、以前から台湾に在住する約八百万人の本省人がいて、両者の間に確執があり、その間の事情が少しも説明されていなかったからである。嶋中さんは、私に電話をくれて、大至急、レイノルズ事件をめぐる台湾の情勢について論文を書いてくれないかと依頼してきた。私は承知して、二晩がかりで原稿を書きあげた。これが「台湾人を忘れるな」というタイトルで三十二年七月号の『中央公論』の巻頭に掲載された。
ジャーナリズムの盲点をついたせいか、この論文は各新聞の批評にいっせいにとりあげられて、すっかり私を有名にしてくれた。
「サムライ日本」の連載は、次の号からはじまったが、私の論文が評判になったら、翌月からすぐに連載をやらせるようになった、さすが嶋中さんは商売人だという人があった。しかし、真相は連載の方が先にきまっていて、巻頭論文の方が臨時に割り込んだのである。ただ「サムライ日本」は、最初に躓きを見せたせいか、六ヵ月も連載すると、編集長が竹森清氏にかわり、新しい編集長は、スプートニクの宇宙打ち上げという画期的な事件の直後だったので、それを記念する意味もあって、「西遊記」の連載を私に依頼した。
「西遊記」は中国の四大奇書の一つであるが、日本では、孫悟空の天界荒らしの場面だけがよく知られ、子供の読物になっている。四百年も前に書かれたものとしては、確かに自由奔放な空想小説であるが、本文は意外に単調な構成であり、全篇をつらぬく思想も仏教の勧善懲悪の思想だから、原作に忠実な書き方ではとてももたないと私は思った。そこで、現代を風刺するモダン「西遊記」に仕立てることにし、藤城清治さんに影絵をお願いして連載をはじめた。堅い文章のぎっしり詰った『中央公論』の中で、ホッと息のつける読物になったせいか、吉川英治先生からも中山伊知郎先生からも「愛読していますよ」と言葉をかけられた。おかげで、連載五年四ヵ月、枚数にして二千五百六十枚という『中央公論』はじまって以来の大長篇になってしまった。挿絵をかいた藤城さんは、当時、まだ駈け出しであったが、この挿絵をかいているうちに、すっかり有名になり、木馬座という影絵芝居の劇団も主宰するようになった。また私の「西遊記」は全八巻の大型本で出版されたが、いまも中公文庫に挿絵入りで収録されている。おかげで、私は『中央公論』の常連執筆陣の一人に加えられ、嶋中さんとは家族ぐるみの交際をするようになり、嶋中さんも邱飯店の常連の一人となった。
しかし、「サムライ日本」はわずか六ヵ月の連載でお払い箱になり、浪々の浪人生活を約一年送った末に、『茶の間』という雑誌に拾われて、そこで再連載することになった。ところが『茶の間』もやがて経営困難におちいって廃刊することになったので、この連載も十ヵ月しかつづかなかった。よくよく不運なサムライだが、もうこの上は再仕官はしまいと決心し、残る四章は書き足して、中央公論社から単行本として出版した。このときに、装幀をしていただいたのが北海道から出てきたばかりのおおば比呂司さんで、おおばさんの感激はひとしおらしく、表紙に描いた写楽風のサムライをわざわざ色紙にもう一枚描いて私に贈ってくれた。いまでも、その色紙は私の手元に残っている。
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