十五、"日本料理は滅亡する"
私の家の食事に邱飯店という名前をつけたのは、池島信平さんであるが、邱飯店の常連として最も古株で、いまなおひいきにしていただいているのは、中央公論社社長嶋中鵬二さんのご夫妻である。嶋中さんご夫妻がいつ私の家に来られたか、記録を見ると、昭和三十二年七月十日になっている。この日付を見て思い出すのは、私が自分でノコノコと、京橋にできたばかりの中央公論ビルに、原稿の売り込みに行ったときのことである。
前年の一月に、私は直木賞をもらったが、私の名前が中国人名前であり、書くことも、香港のことだとか、台湾のことだとか、外国のことばかりであったから、日本的義理人情にしか興味を示さなかったジャーナリストたちに等閑視され、原稿の注文がさっぱりこなかった。私はピンチを打開するためには、日本および日本人と関係のあるテーマを考え、自分で雑誌社に売り込みに行かなければ駄目だと思った。わざわざ中央公論社を選んだのは、『中央公論』がインテリを相手とした雑誌であり、かつ社長が私とほぼ同年代の人で、ひょっとしたら話をきいてもらえるのではないかと期待したからであった。
嶋中さんとはこのときが初対面だった。いきなり予告もなしに訪ねて行ったのだが、秘書に名刺を出すと、すぐに応接室にとおされ、やがて現われた嶋中さんは、
「あなたは『文藝春秋』の出した方だから、遠慮をしていましたが、おいでいただいて有難うございました。早速ですが、『中央公論』の本誌に三十枚くらいの原稿を書いて下さいませんか」
とすぐその場で注文をくれた。私は、
「それはたいへん有難いお話ですが、今日、お伺いしたのは、三十枚の原稿を書かせてもらうためではなくて、実は"サムライ日本"という連載を書かせてもらえないかと思って伺ったのです」
と、当時、人気のあったラジオ番組に擬して、"日本人二十の扉"とでもいうか、外国人が日本人についてわからないことがあったら、この二十章を読めば、大体わかるという、日本人論の構想について説明をした。一回が十五枚くらいのエッセイで、二十回書いて一冊の本にしたいのだと私はつけ加えた。
「わかりました。連載だと部内の調整をしなければなりませんので、三日ほど待ってくれませんか」
内心、なんと厚かましいやつだと思ったのではないかと思うが、嶋中さんは、表情には現わさず、ニコニコしながら私を送り出した。しかし、翌々日には、私のところへ電話をくれて、連載は次号からやりましよう、といってくれた。私は「花は桜木」という第一回分の原稿を書いて、中央公論社に届けに行った。
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