まさか同病相憐れむ気持から私に関心を払ってくれたのではないと思うが、池島さんは受賞後の私にすぐ「日本天国論」を書かせてくれただけでなく、私がどういう方向に向かって走り出すのか、ジッと注目してくれていた。おそらく自分がそういう目で見られていると思ったのは私一人ではあるまいが、誰にもそう思わせるところが大編集者たるユエンかもしれない。しかし、受賞後の私の執筆活動は必ずしも順調ではなかった。私の書くものは、香港や台湾のことが多かったし、檀一雄さんの予言したように、日本的義理人情にしか興味をもっていない編集者たちが食指を動かす対象ではなかったので、私のところへはほとんど原稿の注文がこなかった。私は時間をもてあまし、古典の勉強をして「私の論語」という百枚ばかりの原稿を書いて、あちこちの雑誌に売り込みに行ったが、どこの雑誌にも断られた。やむを得ず再び『大衆文芸』誌に載せてもらった。ああいう同人雑誌を多忙をきわめる『文藝春秋』の編集長がいちいち目を通すとはとても信じられないが、その文章がすぐ池島さんの目にとまり、池島さんは私に「私の韓非子」を注文した。もともと私は韓非を中国の思想家の中でも最も近代的な法思想の持主だと思っていたし、いっぺん、そのことを書こうと考えていたので、すぐに承知したが、その際に池島さんは、
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