すると、ある夕方、配達されてきた「朝日新聞」の夕刊をひらくと、「壇一雄、奥多摩で石にあたって負傷」という三面記事がいきなり目の中にとびこんできた。私は自分が石をぶっつけられたより驚いて、すぐ檀邸に電話をかけた。奥さんは慶応病院に行っていないが、留守をしている人の話によると、生命に別条はないという。

私にしてみれば、せっかく拾ったチャンスがまた指の間から逃げてしまうかもしれない瀬戸際だったから、気が気でなかった。

次の日、とるものもとりあえず、私は病院に見舞いに出かけた。壇さんの病室をきき、おそるおそる階段をあがった私は、ひっそりとした陰鬱な病室風景を想像していた。

ところが、檀さんの部屋の扉をあけて来意をつげると、「どうぞ」といって、すぐに中へ通された。

そこには檀さんの九州時代からの親友である東映の坪井與さんやビデオホールの水田三郎さんらがわいわいいって、酒杯を傾けていた。

檀さんはあお仰けに寝たままの姿で私に会い、
「小説は一部と二部と読みましたよ。もう出版社には話をつけましたから、このつぎきたときにここでひきあわせましょう」
私は症状をきき、あまり長くお邪魔をしていると身体にさわるといけないと思ったので、すぐにも辞し去るつもりでいたが、坪井さんたちは私をひきとめ、
「檀のやつ、もう少し当りどころがよかったら、今頃、もうお陀仏になっていたところですよ」
といいながら、私にも酒をすすめ、相変わらず陽気にはしゃいでいる。なんでも咋夜も、近所からやかましい、と文句をいわれたそうだが、本人たちは平気の平左で、檀さんの病気を肴に酒杯を重ねているのである。

その雰囲気があまりにも普通の人と違っていたので、私はびっくりもしたが、文士というのは変わった生き方をする人たちだなあと改めて感心もした。
帰るときに、またいらっしゃい、といわれたので、私は臆面もなく一日おきくらいにお見舞いに出かけた。檀さんは日がたつにしたがい、元気を取り戻し、見舞いの客もますます多くなり、病室の中はパーティの会場さながら、いよいよ賑やかになっていった。

   4

←前章へ

   

次章へ→
目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ