一年前、地震がありました。
このコラムでも、すこし長い文章を書きました。
あの時私は、とても大きな悲しみに囲まれていました。
それは、自分が見たわけでもないですが、
でも近くでたくさんの人が亡くなったことに対するものであり、
そしてまたそれを感じさせる小さな出来事が、
私の心を刺激したのでした。
実は、私はその悲しみにのまれて、
このコラムに皆さんに助けを求めるような文章を書きました。
まあ簡単に言うと、募金を募るような内容です。
まずは、身内から。
うちの従業員の中で、家が完全に倒壊した人間を助け、
そして少しずつ援助の輪を
大きくすることができないかと考えました。
一方、募金という
ややもすると敏感な問題にもなりかねない内容だけに、
邱先生に「こんな内容のコラムを書いてよろしいでしょうか?」
と事前にたずねました。
私にはショックなことに先生はNOという答えを出されました。
「先生なりのお考えがあってのことだろう。」
でも、何がしか助けの輪を広げて生きたいと思っていた私には
ショックでした。
しかし、考えてもしかたがない、と少し時間をとることにしました。
その意味を今、私が完全に理解できたのかはあやしいものですが、
そのとき先生がおっしゃったことを
断片的に思い起こしながら考えると、
こんな意味ではなかったのかと考えています。
つまり・・・。
人間はいつか必ず死を迎えるものであり、
それは世界中のあちこちで毎日毎日、いや数秒ごとに起きている、
人間にとっては不可避な事象である。
人である以上、それが自分の身の回りに起きたときに
悲しみを感じるのは仕方あるまい。
しかし、特に自分の周りにそれが起きたときに、
声を上げてその悲しみを人に伝えるようなまねをしてはいけない。
向こうで起きている死と、こちらでおきている死。
それは少し遠めに見れば結局同じことで、
ただ普通、人は向こうで起きていることを知らないだけ。
だから、それがどこで起きようとも、
人の生につきものである死に対して、静かに対峙せよ
というのが、
私の神様からのメッセージだったんだと今は理解しています。
そしてその後神様は、従業員を支援するために
ポケットマネーをだまって成都においていきました。
すいません、今回はちょっと辛気臭いですね。
でも、生きている人間にできることは、
生きている時間のことだけですね。
四川大震災で亡くなった方のご冥福を静かに祈りつつ、
ますます良く生きることを考えて生きたいと思っています。
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