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9. えっ、そんな・・・

私が成都に到着したのは、2005年6月5日。
当時、成都にいた荒木さんとMさんが空港に迎えにきてくれました。
80kgを越える荷物のうち、3分の1はホテル事業に関する資料でした。

これから住むことになる場所に荷物を置いた後、
すぐに代表的な四川料理を食べに行きました。火鍋です。
日本人には想像もつかない強烈な味に、
すっかり舌がヒリヒリ、ビリビリしながら楽しい夜を過ごしました。

しばらくは、成都に慣れるまで、パスポートや電話の手配など一通りのことをしながら、
時間は過ぎていきました。

3日後の6月8日。
成都のボスの王さんから食事に誘われました。
中国では、ご想像の通り大勢で食事を楽しむ機会が多く、
これも日本では味わえない醍醐味の一つです。
この日も十数人の大きな円卓を囲み楽しい食事をすると共に、
王さんの昔話に耳を傾けていました。
すると、王さんが突然私の方を向き「金さんホテルですが△☆□です。」とおっしゃいました。

昔、中国の大連に1年留学したとはいえ、
日本で8年間まったく中国語に触れる機会のなかった私は、
たったの3日間では中国語を聞く力が完全に戻っておらず、意味がわからず、
「わからない」という顔をして、もう一度聞いてみました。
「すみません。もう一度お願いします。」
すると王さんは
「きむさん、ほてる、やめたよ。」
私は意味がわかりませんでした。
でもやたらと胸騒ぎがして、
もう一度ゆっくりと「すみません、もう一度言ってください。」と3回目を求めました。

今度ははっきりと聞こえました。
「キムさん、ホテル事業はやらないことにしたよ。」

「我知道了。(ウォージーダオラ)」(わかりました、の意)
と一言だけ答えて、その後何を食べて、何を飲んで、何を話したのか記憶にありません。

王さんがその後も、事業の辛さを、
大きな森の中で迷ってしまうことに例えて熱弁をふるっていましたが、
意味がまったく理解できず、私は心すでにここにあらずの状態でした。

夜不安になって、荒木さんやMさんに電話をして何か知っているかを聞いてみたものの、
答えはNOでした。
次の日、先生の当時の秘書の方に電話して、
「ホテルの件何か知っていませんか?」と聞きましたが、
「何かわかったらお伝えします。」という少し気をつかった返答しか返ってきませんでした。

「ホテルをやる。ホテルの経営者になる。」
そういって日本を飛び出してたった3日目にして、暗礁にのりあげてしまったのです。
しかもその先の視界はゼロメートルだったのです。

と同時に、日本で「俺、中国でホテルやるからさ、泊まりにこいよ。」
と友人にふれまわった自分が馬鹿馬鹿しく、そして情けなく思えてきました。

ましてや、一ヶ月後に来ることになっている妻にこんな不安になるような話はできません。
一人で、「今後どうなってしまうんだろう。」と不安を抱えながら夜を迎えました。

しばらく時間が経ち自分の気持ちを落ち着かせるために、本を読みました。
何回も次の言葉を繰り返しながらその日は眠りにつきました。

「最も強い者が生き延びるのではない。
最も賢いものが生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、変化できる生き物である。」
(チャールズ・ダーウィン「種の起源」より)
*この文章は「種の起源」には載っていないという主張が強いことを注記しておきます。


2007年5月21日(月) <<前へ  次へ>>