第100回
組織ケーエイ学36:ヒッチコック。

ヒッチコックの名作はいくつもあるが、そのベストとなると、「サイコ」をあげる人が多いかもしれない。
ヒッチコックは、いつも観客を重視して、商業的な結果を求めていた。その意味でも、彼自身も、いちばん評価した作品がサイコだといえる。

サイコにも驚いたけれど、ぼくにとってのベストは、断然「めまい」だ。
本当にめまいがするほどの名作で、こんな恐ろして美しい映画もめずらしい。めまいには、いろいろな要素があって、簡単にストーリーを語りづらいけれども、心に深い傷を持っている男が、出会った女を男の理想(=死んでしまった恋人の記憶)どおりに仕上げていくという物語でもある。トリュフォーの解説によれば、ヒッチコック自身がグレース・ケリーの面影を求めていて、キム・ノヴァクをグレース・ケリーのように仕上げて撮った、そうだ。

ヒッチコックは、俳優たちをしばしば家畜にたとえていた。
彼は、素材としての俳優えらびにはこだわったが、俳優たちに自由に動いてもらい、そのよい面を引き出すというやり方はしない。俳優たちが、自分自身で考えた「演技」をすることを嫌い、俳優たちには「演技をするな。ただ、言われたとおりに動けばいいんだ」と指示するタイプだった。

イングリッド・バーグマンは、さすがに知性派だけあって、自分なりの演技プランをもっていたそうだけれども、ヒッチコックにとっては、それがむしろ邪魔になる。あるとき、どうにも意見が対立して、バーグマンがこれ以上演技できないというところまでいったとき、ヒッチコックはこう説得した。
「イングリッド、たかが映画じゃないか・・・」
たかが映画というわりには、「だから自由にやってよい」とは決して言わなかった。
あくまで俳優の考えをしりぞけるための理屈である。

ぼくらの仕事でも、スタッフの意向を尊重しすぎた結果、作品からなにか感動が消えてしまうことはときどきある。一方では彼らの力をうまく引き出して、他方ではそれをコントロールしなければならない。
その線引きはどこでするのだろう。そのさじ加減こそが、ディレクターの個性ということになるかもしれないが、やはり何か、基準がなければ迷いが生じる。
ヒッチコックの場合は、それが観客(それも一般の観客)だったわけだ。


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