第89回
組織ケーエイ学31:命令の是非を考える。

今度の戦争に、口先だけ反対してみようかとも思った。しかし、賛成してる人だって「アメリカとケンカするわけにもいかないから、仕方ない」のが本音と思う。このような戦争に駆り出されて、破壊と殺傷に追い込まれる兵士たちの心情を考えると、気が重くなる。

かりに武器保有の点でイランが違法状態にあり、統治者が危険きわまりない人物だとして、その統治者を武力でもって追い出す権利が第3者にあるのかどうか。そんな権利があるのだとすれば、もうひとつ、こちらの方にも危険きわまりない国があるのだし、ついでに片づけて欲しいような気はする。その考え方では、何が許され、何が許されないのか、線引きができない。

「イラク国民が憎いわけではない。悪いのは統治者だ」というなら、戦争でなく、暗殺で解決してもよさそうなものだ。今回の狙いは、暗殺と戦争の中間ぐらいだろうか。
考えてみると暗殺が犯罪で、戦争が犯罪でないのは不思議である。
当コラムでは、戦争の是非ではなく、命令された兵士の立場を考えてみたい。

軍隊では、兵士が自ら考えることを放棄するよう訓練される。
日本の軍隊にも「命令は、その是非を問うべからず」という規則があったはずだ。たしかに、いちいち命令の正当性を説明しなければならないとすれば、組織の能率は著しく阻害される。
しかし時代も変わってきている。戦争の実情が、むかしのような典型的な集団対集団のぶつかり合いではない。今ではアメリカの軍隊でも、予期しづらいゲリラ戦やテロに対応して、兵士の主体的な判断や行動を前提として、作戦を立てる場合があるそうだ。

戦争が終われば、戦争犯罪が裁かれるわけだが、そこでは「命令だったので仕方なくやりました」では済まない。人道にもとる命令は、市民として拒否しなければならないという、普遍ルールが適用される。組織のルールに従っていたとしても、それで人生安泰だというわけではない。

極限の板挟みの状況で、一人ひとりの生き方を決めるときは、前提をくつがえして考えることも必要かも知れない。最後の最後には、味方の上官をうち倒してでも生き延びよう、と・・・・自分はそう考えたい。あとはとっさの判断ができるかどうか、だ。


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