第33回 (旧暦2月3日)
もうひとつの「視力」
いつだったか、狩猟民族の視力は5,0がアタリマエ、
という話をしましたが、5,0にしろ1,0にしろ、
われわれが通常こうした数値で表す視力というものは、
物理的ないしは生理的な視力のことを差しています。
しかし、これとは別に
「もうひとつ別の視力」があるのではないか、
ということを考えてみたことはないでしょうか?
たとえば、こういうことです。
仙人は、左右両眼とも0,2という
およそ仙人らしからぬオソマツな視力ですが、
今ではほかの人より先にチョウチョの姿を見つけますし、
かなり離れた位置からでも大方のチョウの種別を
判定することが可能です。
それは、小学生のころから青年期の初めまで
夢中でチョウを追いかけていた時代があったため、
それぞれのチョウの色や大きさ、姿かたち、飛型、
吸蜜する花の種類、発生する時期や分布……
等々の観察経験による情報が
いつの間にか頭の中にインプットされていて、
チョウの姿を認めると反射的に
その情報が整理されて甦ってくるからにほかなりません。
そして、これに似たようなことは、
多かれ少なかれ、だれにもあるように思うのです。
仙人は、こうした物理的視力に頼らない識別力を勝手に
「経験視力」と呼んでいるのですが、
生まれ持った物理的視力というものが
年齢を重ねていくとともに衰退を余儀なくされるのに対し、
この経験視力というやつは、
年齢を重ねるごとに視力を向上させられるという
重宝な性質がありますから、
一度、現在の自分の経験視力を
チェックしてみてはどうでしょうか。
世の中には、「一を知って十を知る」という
禅問答のような言葉がありますが、
実は仙人は、このうちの「九」こそが
経験視力の所産だと密かにニラんでおるのです。
そうなると、もしかして昔の仙人たちも、
仙人だから長生きできたのではなく、
長生きできたから仙人になれたのかもしれませんゾ。
仙人術を磨くには、小さなうちから経験視力を養いたい
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