| 第1085回続・安岡章太郎著「観自在」を読む
 作家の安岡章太郎さんから送られてきた近著「観自在」(世界文化社)の
 感想の話の続きです。
 この本、タイトルは「観自在」ですが、別に宗教臭い作品ではなく、
 安岡さんらしく、
 気ままに自在に生きてきた人生観――、
 「ものの見方・考え方」を説いた
 49篇を収録した軽妙な随筆集なのです。
 ちなみに観自在とは? 「観世音菩薩」(かんぜおんぼさつ)、
 もしくは「観自在菩薩」(かんじざいぼさつ)と呼ばれ、
 一切の人々を観察して、
 その苦を救うのが自在な菩薩のことですが、
 このエッセイ集では
 「人生は、観い(おもい)のままに、自由自在であれ」
 といった意味なのでしょう。
 というわけで、中でも歴史に対する考察が痛烈です。
 「世界史としてのアジア」というエッセイなどには、
 まさに安岡流の「自由自在思考のすすめ」が
 存分に展開されております。
 「世界史を理解するための鍵は東洋に匿(かくれ)ているのではないだろうか」
 「すべて研究は竹の根のように(略)
 新しい芽を出すべきものである」と主張する
 「宮崎市定 アジア史論考」を
 とりあげて共鳴しています。
 「歴史に限らず学問と名のついたものは(略)、
 学者によって《荘園化》されていることか]と批判し、
 「なんでも見てやろう」式の
 自在な歴史視点の大切さを説いています。
 たとえば「明治維新のとき、
 薩摩と長州が最も強く攘夷を主張したが、
 これは薩長二藩が
 当時密貿易で莫大な利益を上げており、
 鎖国を解いて開港すれば
 密貿易の利益が得られなくなるからである」
 とする、宮崎市定・独特の
 「幕末論」と自在史観を取り上げています。
 安岡章太郎ファンなら、幕末から明治維新までの歴史と運命を描いた
 『流離譚』や『鏡川』という名作や、
 「ドン・キホーテと軍神」といった名エッセイを
 読んだことがあるでしょうが、
 「とらわれない目」をいつも大切にしてきた
 安岡さんの作品の原点がわかる論考です。
 というわけで、この本の最後に収録されたエッセイが印象的です。
 「しかし今日余りにもどうでもいいような本が
 氾濫しすぎているのではないか」と、
 最近の出版傾向についても皮肉を込めて綴っておられます。
 “なにごとも、心が縛られていては、
 真の観自在は実現できない“というわけです。
 ともすれば、“とらわれやすい”この時代に向けられた
 軽妙にして痛烈な随想集ですから、
 夏休みに必読の一冊として、奨めておきます。
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