第324回
続・僕が「ドクハラ」本を書いた理由
「ドクハラ」とは、
ただ医師の不遜な態度や言葉を指しているわけではありません。
もっと治療全体のあり方が問われる根の深い問題なのです。
いま大学病院で常識とされている、
「切り捨てご免」の医療システムにこそ、
患者の命を弄ぶ治療の悪弊が潜んでいると僕は思います。
未熟な手術の失敗、合併症、再発、転移そして院内感染の不注意…
病院が病気を治すのではなく、
病気を作っているとしたら許されません。
QOL(命の質)を奪っているとしたら患者はウカウカできません。
僕自身の闘病もこともさることながら、
ドクハラという言葉を聞くたびに、
前回書いた大小8回の手術に耐えた、
温厚なCさんの死が無念でならないのです。
僕が「ガン患者よ、ドクハラと闘おう!」という本を書いた裏には、
この大学病院の惨い仕打ちへの押さえがたい憤りがあります。
前にも書きましたが、Cさんは同じ大学病院の同じ主治医に罹り、
僕はその「ドクハラ治療」の危険を察知して手術を拒否。
ガン病棟を逃げ出して、別の治療の道を選んだわけです。
それだけに“戦友”のCさんが耐えつづけた
ガン病棟400日の痛みがグサリグサリと骨身に刺さるのです。
Cさん、苦しかったでしょうね。頑張ったんですね。
それを「ドクハラ」と呼ぶのは、おまえさんの思い過ごしだ、
ガン患者の神経過敏症だと言う人がいるかも知れません。
しかし、Cさんの遺書ともなった自費出版の著書から、
闘病のほんの一部を引用しますので、
その惨い仕打ちをじっと読んで見てください。
この本の全体は故郷・信州の楽しい思い出や
交遊録を記したものですが、
その序で、同郷の親友で出版証論家・塩澤実信さんが、
苦闘に耐えるCさんの姿を淡々と綴っておられます。
「(食道ガンで)十六時間に及ぶ大手術を受けるーーー。
折を見て見舞いに通ったが、術後しばらく声が出なくなり、
さらに右下顎の激痛を訴えるようになった。(略)
右下顎にも新しい癌が発見され、
四ヵ月後に再度、十数時間の大手術を受けた。
食道癌の手術で、喉元から胸、腹に、深い傷痕を刻まれ、
下顎癌では唇から右下顎、背中にかけて、
三枚下ろしのような傷痕を印されて(略)
さらに不運だったのは、術後のクオリティ・オブ・ライフのため、
顎へ腸骨(*腰の前面に張り出している骨)を移植した、
その骨が腐ってしまい、削出手術を余儀なくされたことだった。
腸骨を切除された左腰は、
院内感染のメチシリン耐性ぶどう球菌に冒され、
化膿して抗生物質が効かないため、
ピンポン球大の傷口をいつまでも晒す身となった」
「この間、愛妻と娘とその夫、息子たち家族を挙げての献身と、
尽力ぶりは、傍目にも、
過労で一家が倒れるのではないかの懸念を抱かせた」
以後、Cさんの声はかすれ、
ツエを頼りの入退院の日々が続いたわけです。
本には書かれてはいませんが、術後、
心無い医師たちは自らの失態を謝るわけでもなく、
なんといったと思います。
「これは珍しい症例だ。学会に発表しましょう」
なんとも患者の気持ちを逆撫でする暴言ではありませんか!
ガン病棟の奥では、まだまだ、こんなドクハラ治療が
罷り通っているのです。
この本には「関根進様 恵存」と、
Cさんの達筆で書かれた揮毫が残されておりますが、
「セキネサン ボクノ タタカイヲ ムダニシナイデ クダサイネ」
これが無言のメッセージとなってしまったのです。合掌。
|