中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第3191回
台湾に生まれたばかりに私の一生は

私はかつて日本の参議院議員の選挙に
打って出たことがあります。
55歳の時ですからいまから29年前のことになります。
どうして私のような
「政治家を二流の人物」と表している人が
政界に打って出ようと考えたかと言いますと、
独立するチャンスを失った台湾が将来、
必ず中国大陸と政治的な交渉をやらされる時が来る。
もしその時、私が日本の参議院で
海外援助委員会の委員長でもつとめていたら、
いくらかでも台湾の援護射撃ができるんじゃないかと
思ったからです。

当時、中共は日本政府から3000億円ほどの借款を受け、
新日本製鉄の技術援助とあわせて
宝鋼公司の建設をはじめたところでしたが、
あの非能率な共産党では将来、
必ず予定通りの返済ができなくなるに違いない、
その時、私が交渉相手の日本の重要ポストにあれば、
多少なりと台湾の役に立てるだろうと思ったのです。
何しろ私は無国籍者からやっと中華民国籍ということになり
日本籍はまだ持っていませんでしたから、
被選挙権どころか、選挙権もありませんでした。
そこで俄かに日本籍に戻る必要を感じ、
(生まれた時、台湾は日本の領土でしたから、
私は植民地の人間ながらも、日本籍でした)、
日本国籍取得の手続をすることになりました。
積極的に手伝ってくれたのは田中角栄首相で
直接の担当をしてくれたのは塩崎潤さんでした。
辛じて選挙には間にあったのですが、
その年の1月1日は日本籍でなかったので、
立候補はできたのに
自ら票を入れることすらできなかったのです。

私が経済講演をすると
多い時は3000人も聴衆が集まったので、
全国区なら大丈夫と思ったのですが、
実際は15万票しか集まらず、
辛じて罰金を払わないですむ
ギリギリの票しか集まりませんでした。
ロクに選挙運動をしないで
それだけ票が集まれば立派なものだよと
中曽根康弘さんから妙な慰められ方をしましたが、
こうした無謀な行動も
本当は台湾の将来を思ってのことだったのです。
どんなに遠くまでとび出した積もりでも、
生まれ故郷は生涯一緒になって
ついてまわるものなんですね。


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2008年12月4日(木)

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