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第3189回
なぜ私が台湾の独立運動に寝食を忘れたか

戦後、台湾を接収して統治にあたった
蒋介石の国民政府に私が叛旗をひるがえして
生命カラガラ香港に亡命したのは私が24歳の時でした。
私は早生まれで、且つ7年生高校を6年半で卒業したので
東大経済学部を卒業したのは21歳の時でした。
翌年、台湾まで引揚船が出ることになったので、
大学院の学生だった私はそれを逆に乗って台湾に帰りました。
当時の私がどんな目にあったかは、
私の書いた「濁水渓」や「わが青春の台湾」が詳しいので、
ここで改めて書きませんが、
あまりにもひどい汚職政治に
堪忍袋の緒を切らした台湾の人たちがデモをやり、
それがきっかけで1万人に及ぶ台湾の人たちが
蒋介石の送り込んできた軍隊に
虐殺されるという悲劇が起りました。
これが有名な二・二八事件で、
実際に私の目の前で起ったことです。

日本が台湾を統治した50年間に、
東大を出た台湾の人は100人しかおりません。
その中で台大の文学部長をしていた人と
屏東市長をやっていた人と
新竹の検事をやっていた3人が行方不明になって
死体も見つかりませんでした。
私はまだ23歳で社会的地位がなかったので
危うく難を逃げれましたが、
怒り心頭に発した私は単身でこっそり香港に渡り
国連に「台湾の国際的地位はまだ決定していないのだから
国民投票によってその将来の地位を決めるべき」と
請願書を出したのです。

当時、私は台湾の華南銀行という市中銀行で
調査課長をやっていましたが、
発覚すればもちろん、銃殺です。
とるものもとりあえず飛行機に乗って高跳びしましたが、
2日遅れたら生命はありませんでした。
6年間を香港で彷徨して昭和29年に再び東京に戻り、
翌30年下半期に「太陽の季節」で一躍有名になった
石原慎太郎君の芥川賞と並んで、
小説「香港」で直木賞を授賞され、
一人前の作家として世間から認められるようになったのです。
台湾の独立運動は香港にいた6年間と日本に舞い戻ってからも
寝食を忘れて力を入れてきたことでした。


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2008年12月2日(火)

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