第2272回
料理は腕でなく舌で覚えるものです
私の借家住まいをしていたボロ家で
最先にお客になっていただいた文人墨客は
佐藤春夫先生ご夫妻と檀一雄さんでした。
そのことを「邱飯店のメニュー」の
書き出しのところでふれています。
私が物書きを志してまだ駆け出しの頃、
私を眞っ先に認めて下さったのは
長谷川伸先生と長谷川部屋の山岡荘八さんや
村上元三さんたちでした。
でも私は大衆小説や股旅物の世界に
うまく融けこめませんでしたので、
大学の先輩にあたる檀一雄さんに手紙を書きました。
そうしたら、檀さんが私の小説を読むなり、
すぐ私をご自分の師匠にあたる
佐藤春夫先生のところへ連れて行ってくれました。
何回かお邪魔しているうちに、
檀さんがあんまり私の家の料理の話をするので、
私も引っ込みがつかなくなって
「ご馳走したいと思いますけど、とても小さな家で
玄関入ったらすぐ裏に抜けて出てしまう家なんです」
とおそるおそる申し出たら、
「じゃ短篇小説だね」
と佐藤先生は二つ返事で承知してくれました。
何しろ借家の上に、座布団だって
薄っぺらなのが四枚しかありませんでしたから、
庭続きの大家さんのところに借りに行きました。
料理人だって、お手伝いさんはいましたが、
皿運びくらいしかできませんから、
俄かコックの家内に私が仕入れ係、それでも最後の果物を除いて、
十三品も次々と珍しい料理をつくって出したのですから、
大へん賞められ、家内もすっかり自信をつけました。
何しろ家内はお手伝いさんが六人もいる家に育って
私のところに嫁に来るまで
台所ものぞいたことがありませんから、
料理についてはシロウトもいいところです。
それでも必要に迫られて台所に立つと
たちまち名コックになったのですから、
料理は腕で覚えるものではなくて
舌で覚えるものであることがわかります。
以来、私の家ではずっと定期的に人を招くようになり、
池島信平さんが「邱飯店に行こうよ」
と誘うようになってからも
初代コック長をずっと勤めたのはうちの家内でした。
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