第2273回
香港に移住して「邱飯店のメニュー」は自然消滅
私の家の料理については、
文人墨客から実業家の方々に至るまで
色んな人がお客になっているので、
あちこちで文章にもなり、
人からきかされてはじめて知ったことも
1回や2回ではありません。
やがて、私が国民政府と折り合って台湾に帰れるようになり、
台湾からプロのコックを連れてくることも
できるようになりました。
おかげで私の家は日本では珍しく
個人の家にプロの料理人がいるようになりましたが、
コックのその上のチーフ・コックは
依然としてうちの家内でした。
はじめて来た頃、
台湾のコックは内心うちの家内をバカにしていましたが、
やはり実力の差は抗しがたく、
半年以上もたってからやっと全面降伏をして、
「奥さまは私のお師匠さまです。
でも私は貧乏ですから、弟子入りの貢物はお持ちできません」
と家内の言うことをきくようになりました。
以来、私のうちのメニューはややプロの味が加わりましたが、
「邱飯店のメニュー」の主流は依然として
私の育った福建風の味と家内の育った家の広東風の味が
ミックスしてできあがった
邱家独特の家庭料理であることに変わりはありません。
大体、10日に1ぺん、月にして平均3回くらいは
私の交際範囲に入ってきた人たちを家に招んだので、
気がついて見ると、
文人墨客や出版界の人は大半を網羅しているし、
実業界も大屋晋三、市村清、五島昇、
本田宗一郎、盛田昭夫といった人たちから
更に若い年代の人たちまで
我が家の来客リストに名を連ねた人たちは
決して少なくはありません。
ただそのうちに私は台湾、香港、東南アジアから
遂に中国大陸にまで足を伸ばすようになり、
住居も香港に移すことになってしまったので、
とうとう東京が留守がちになってしまいました。
自分が年をとって
コックの油っこい料理を受けつけなくなったせいもありますが、
ヒマを出したコックにはアメリカに渡ってもらい、
私たちは香港に住むことが多くなりました。
香港に住んで、家内はもう一度、
お手伝いさんに料理の手ほどきを
はじめからやることになったのです。
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