中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第2270回
私の「食は広州に在り」の誕生したきっかけ

小説家を志して香港から東京へ出てきた私は
しばらく大森臼田坂にある私の姉の家に居候していましたが、
やがて自由が丘のお隣りの九品佛というところで、
家主さんの家の部屋の3つある離れを
家賃1万6千円で借りて住むことになりました。
まだサラリーマンの月給が1万円台の時でしたから、
そんなにみじめな生活ではありませんが、
邸宅もあり、運転手もあった香港の生活に比べれば、
家内にとってはかなりの耐乏生活です。
物書きとして一人前になるための原稿を脇目もふらずに書いて、
それこそ柳行李を一杯にしたのも、
この借家にいた時のことです。

親子3人だけですから、貧乏生活と言っては叱られますが、
香港育ちでアイウエオも知らない家内ではロクに用も足せないので、
千葉の田舎からお手伝いさんに来てもらいました。
でも一冬を炭一俵で送った記憶が残っていますから、
毎日食べるパンが何切れで、
卵がいくつというのも勘定できるつつましい生活でした。

そこへ或る日、
私の東大時代の友人の兄さんで文芸春秋の記者をしていた
薄井恭一さんという人が訪ねてきてくれました。
家内があわてて肉屋や魚屋を走りまわって
精一杯の料理をつくって食卓に並べたところ、
「おいしいですね。とてもおいしいですね」
と連発され、
調子に乗ってこちらも自分の生まれた家の食事や、
家内の家の料理のことを披瀝したところ、
「実は大阪に鶴屋八幡という和菓子の老舗があって、
“あまカラ”という食べ物の雑誌を出版しています。
文春をはじめ、文士の方々がひいきにして
寄稿している人もたくさんいます。
そこに中華料理の話を半年か、一年くらい連載してみませんか」
といきなり誘いをかけていただきました。

短編小説だって文芸雑誌になかなか載せてもらえなかった私に
いきなり連載の話ですから、
こちらも驚きましたが、
それが私の「食は広州に在り」が誕生するきっかけになりました。


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