第2269回
邱飯店のメニューを再録するにあたって
私の家の食事会に「邱飯店」と命名したのは
文藝春秋の社長さんをしていた池島信平さんでした。
小説家になることを志して、
1才になったばかりの娘と家内を連れて
亡命先の香港からフランス郵船のベトナム号に乗って
東京へ戻ってきたのは私が29才の時でした。
時の国民政府に叛旗をひるがえして
生命カラガラ香港に逃げた私は
このまま異郷で身を沈めてしまうのではないかと
夜明けまで一睡もしない日々を送ったこともありましたが、
切羽詰ってひらめいたアイデアが
私に起死回生のチャンスをもたらし、
数年を出でずして私は家もマイカーもあるようになり、
結婚して一家を構えることのできる幸運に恵まれました。
でも好事魔多しで
金の儲かる仕事にはたちまちライバルが続出し、
仕事はうまく行かなくなるし、
もともと商売に向いた性格ではありませんから、
東京と香港の間を行き来している間に
飛行機の中で読んだ「オール読物」誌の
「オール新人杯」という小説募集に応募したところ、
九百何十篇かあった中の最後の5篇に残り、
当選こそしませんでしたが、
審査員5人のうち2人の先生方から
過分の褒め言葉をいただいたので、
もしかしたら自分にそうした才能があるかも知れない
と早合点して、香港の家を畳んで、
昔、学生時代に勉強をした東京へ臆面もなく戻ってきたのです。
幸いにも1年目に
「濁水渓」という作品で直木賞の候補になり、
この時は落選しましたが、
2年目に「香港」という小説で
第34回の直木賞を受賞することができました。
あれから早くも50年の歳月が流れ、
いまでは直木賞受賞者の中で
私が最年長者ということになってしまったようです。
今回、私の家の食事会の思い出を綴った
「邱飯店のメニュー」をハイハイQさんで再録することになり、
この欄を借りてその沿革について
少しばかりお喋りをしたいと思います。
どうぞしばらくご辛抱をお願い致します。
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