第2130回
軍師が「金儲けの神様」になったわけ
勾践の下を離れてしばらく
太湖の畔に住んでいた范蠡は
やがて一族郎党を引き連れて斉の国に出、
名前も鴟夷子皮(しいしひ)と変えて
海濱で耕作に従事し、
自らを苦しめ力をあわせて蓄財に励みました。
鴟夷子皮とは皮でつくった袋のことで、
酒を入れることもできれば、
たたんでしまいこむこともできる、
だから自由人になったというほどの意味です。
間もなく数十万の富を積蓄したので、
斉の国ではこの人は天下の賢人だときいて
宰相に迎えました。
でも本人は
「家に居れば千金の富を得、
官に居れば卿相の位に就く。
布衣(身分の低い者)にとっては出世の極みだけど、
長く尊名を受けるのは不吉だ」
と言って宰相の印綬を返えし、
また新しく築いた財産を悉く人に分ちあたえて、
こっそり陶(山東省定陶)の地に居を移しました。
当時の陶は天下の中央に位置し、
商いの盛んに行われる交易の中心地だったので、
ここに居を構えれば
富を致すことができると思ったからです。
ここでも父子して耕蓄に励み、
また物価の動きを見て、下落すれば買占め、
値上がりすれば売り出して
10分の1のサヤを稼ぐことに念を入れたので、
程なく大金持ちになり、
陶朱公の名前は
広く天下に知られるようになったのです。
3回、居を移り、
無に近い状態から再出発しても、
いつも巨万の富を築き
一生を大富豪として全うすることができたので、
世間ではその名を伝えて
「お金儲けの神様」として崇めるようになったのです。
その陶朱公を守り神とするという意味で、
三全公寓のレストランを陶朱公館と改名したのです。
陶朱公館という名前にひかれて
おいで下さる方もあるでしょうが、
いまの中国は早くお金持ちになることを
願う人たちばかりですから、
「お金儲けの神様」に線香の一本もあげれば、
自分もその恵みに浴すると考える人も
後が絶えないのではないでしょうか。
そうした欲張った人をあてようと考えたこちらも
それに負けず欲張っていることになるでしょうが。
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