第675回
香港の夕焼けは1日にて落ちず
深と香港は、電車に乗って約半時間で着きます。
竹のカーテンに遮られていた頃は
人の往来もままならなかったし、
自由港であった香港と共産主義下の深では
所得が20倍から30倍ものひらきがありました。
香港の返還が近づくと共に、
深が外国資本に門戸をひらいた関係もあって、
香港資本も台湾資本もおそるおそる
深とその周辺に加工工場を持つようになりました。
はじめの頃は中共に対する不信感が強かったので、
委託加工の形でスタートしましたが、
そのうちに資本家を敵視せず、
ちゃんと約束を守ることがわかって、
香港の会社が少しずつ工場を大陸へ移すようになりました。
たったの30分間、電車に乗っただけで
20分の1の賃金で働く人がいくらでもいるのですから、
九龍湾あたりにあった香港の工場の経営者は
どうしたって深に工場を移すことに心ひかれます。
その一方で香港では賃上げを要求されたり、
団体交渉で労働条件の改善を強いられたりしたので、
なかには組合の反撃を恐れて、
夜中に機械設備をはずして深まで運び出し、
従業員が朝、出勤したら、
工場の中がも抜けの殻になっていたという
笑い話のようなことも起りました。
いまでは香港の工場地帯はほとんどの工場が
深とその周辺の広東省一帯に移動してしまい、
香港はその窓口として
その対外輸出業務事に従事しています。
生産拠点としてのメリットがなくなってしまっても、
なお香港がゴースト・タウンにならずにすんでいるのは、
香港の税金が安く、ここを国際貿易の中継地にすれば、
税金の節約になるのと、
世界中の物を運び込むのに関税がかからず、
原材料の調達や製品の移動に便利だからです。
香港のコンテナ・ヤードの大きさと、
上げおろしをされるコンテナの数を見たら、
工場が大陸に移動したくらいのことで、
150年かけてつくった香港が
1日にして消えるものでないことがわかります。
香港の存在価値は何と言っても、税金の安いことと、
自由港としての便利さということにあります。
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