渋谷に建てた一軒目のビルは何とかテナントも入って、自分で一階分を事務所に使うほか、年間に約五〇〇万円の家賃収入があがるようになった。株を買って年間に五〇〇万円の配当金をもらおうと思ったら、それこそ気の遠くなるほど株を買わなければならない。それが不動産だと、土地代一〇〇〇万円、建築費一八○○万円、それに冷暖房設備四〇〇万円の計三二〇〇万円かかっただけで、しかも保証金を七〇〇万円もらっているから、実質二五〇〇万円の投資に対して年に二〇%以上も収入があがる勘定である。当時の二五〇〇万円は今のお金になおしたら、おそらく一〇倍にはなる感じだが、土地の値上がりを二の次に考えても、利回りだけで不動産投資は充分成り立つ。そう思って、まだ一軒目のビルの借金が残っている間に、私は銀行へ行ってお金を二〇〇〇万円ほど借り、その上に六〇〇〇万円ばかりかけて約四〇〇坪の四階建ての建物を建てた。
当時、東京にはまだスーパーというものがなく、わずかに主婦の店ダイエーがSSDDS(セルフ・サービス・ディスカウント・デパートメント・ストア)、一口でいえばアメリカ式の安売り屋をはじめたばかりであった。私はダイエーを東京に誘致したらいいのではないかと思い、かねて面識のあった中内功さんにわざわざ東京まで来てもらって、出店の可能性を研究してもらった。中内さんは、一番小さくても六〇〇坪の売場が必要だし、店ができると、一日に二〇〇台は商品搬入のためのトラックが出入りするから、あの道路事情では駄目だといった。
まだ東京に総合スーパーというものがなかった時代だから、私は代案として一階に食料品の安売り屋、二階に衣料品の安売り屋、三階に電気の安売り屋、四階に家具の安売り屋と、安売り屋ばかり集めれば全体として総合スーパーになり、お客をひきつけられるのではないかと考えた。資金のない私は建築費を捻出するために、敷金を多めにして家賃を少し、という条件で、郊外にポツポツ出来はじめた安売り屋を口説いてまわった。
一階には八王子の食品スーパーが、二階には府中市の衣料スーパーが入ってくれることになったが、三階、四階はなかなかテナントがつかなかった。しかも上と下が別々の安売り屋で経営してみると、食品は何とか商売になるが、衣料品の安売り屋は特売をかけた日だけお客がドッと押しかけて、あとの日は閑古鳥が啼くので、半年もしないうちに商売がやって行けないことがはっきりしてきた。三階、四階ではとても商売はできないので、商店に貸すのはあきらめて、地方の会社の東京支店に貸すことにした。しかし、この会社が折柄の不況で間もなく倒産してしまった。
三階、四階は家賃を払ってくれなくなるし、二階も店を明け渡すから保証金を返してほしいという。保証金は建築費に払ってしまったあとだし、銀行に返済するための家賃が入ってこないとなると、どうしていいのか戸惑ってしまう。
私は生まれてはじめてヨーロッパ旅行に出かけ、南回りで香港まで辿りついたところでこのニュースに接した。とたんに、飯も喉をとおらなくなってしまい、香港から飛行機に乗り込むときもうわの空であった。
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