第55回
福祉の国の熊さん
その国民学校では私を含めて外国人が10人位いました。
私は「デンマーク語」という授業は
日本の「国語」と同じだからレベルが高すぎると思って
取りませんでした。
この思い込みは大失敗で、
外国人向きにも授業が有るのを後で知りましたが、
途中からは入れませんでした。
精神科の病院から退院して、
社会復帰の第一歩として入学してきた人が何人もいました。
そういったリハビリを兼ねた人や兵役を終えてきた人の費用は、
国や地方自治体から出ています。
入学してから数ヶ月で病院に戻った人もいました。
ビョ−ン(熊)という名がぴったりの
髭を生やした逞しい大男がいました。
学校では主に絵を描いていました。
乗馬の授業で年が明けて初めて屋外に乗り出した日に、
このビョーンと一緒だったことがありました。
一匹の興奮した馬が跳ね上がって
ビョ−ンの太股を後足で“パッカーン”という感じで
まともに蹴りつけました。
自由の利かない鞍の上なので避ることも出来なかったビョ−ンは、
悪態をついて涙をポロポロとこぼしました。
馬蹄の跡が焼印のようにくっきりと太股に残りました。
でも、思いっきり蹴られて折れなかったんだから丈夫な骨ですね。
会う度にニコニコして
「マサヒロ、元気かい。そりゃ良かった」と
それだけを言うために近づいて声をかけてきました。
その彼が、学校が終了してコペンハーゲンに戻った時に、
私の職探しの手伝いをしてくれました。
知的障害者の施設に連れて行ってくれたのです。
デンマークの施設は視察を兼ねて是非働いてみたい職場でした。
事務所で人事部の女性の部長さんと、
私は生まれて初めての面接試験をすることになりました。
実は私は元気はつらつ、からは程遠いし、
はきはきもしていないので、面接には向いていないのです。
でもビョーンがいてくれたおかげで一発で採用になりました。
帰り道、ニコニコしながらビョーンが言いました。
「今でも知らない人と会うと汗かいて、
胸がどきどきするんだよね。いやまったく」
私はその時始めて知ったのです。
「なんだいそれは・・・?」と説明を聞いて驚きました。
この大男のビョ−ンは対人恐怖症だったのです。
病院から直接、国民学校の寮にやってきたのでした。
それを克服して初対面の人と話をつけてくれたのです。
よく頑張ったのは私がいかにも無力に見えたからでしょうか。
人助けで対人恐怖症も克服できる自信が付いたのか、
新しいチャレンジだったのでしょうか。
ビョーンは郊外の住宅をまわって
自分で描いた絵を売ることも出来るようになりました。
その後はチボリ公園の蚤のサーカスでも働きました。
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