求人広告にドッと
私について台北にきた日本人が、私が中山北路と南京西路の交差点で建てたビルの一、二階で喫茶店を開くことになり、従業員の募集をしたら、何と千人もの若い男女が集まった。
人手不足でいくら求人広告を出しても電話一つかかってこない日本に比べてあまりにも雲泥の差だから、誰だって日本で賃金上昇のために採算割れになった事業を台湾に移せばやっていけるのではないかと考えたくなる。当時の私が書いた文章を読みかえしてみても、日本で採算割れになった工場を韓国か台湾へ動かすのが日本の産業界のこの次の流れになるだろうと盛んに主張している。
昭和四十年代の後半においてはたしかにそういう見方が正しかったし、多くの企業家も同じ考えを抱いていたので、私がその人たちのために台湾で工業団地をつくると、腕時計の文字盤メーカー、少量多品種のレンズメーカー、ルーバードアなど木製品のメーカー、テントコンテナ・メーカー、既製服メーカー、漬け物のメーカー、豚肉の加工メーカーなどが私の工業団地や付近に進出をしてきた。
これらの進出企業は、途中で石油ショックの洗礼を受けて挫折したものもあれば、日本が省エネ、自動化という奇手に訴えてコスト・ダウンに成功すると、たちまち採算割れになって工場閉鎖の憂き目にあったものもある。今日なお命脈を保っているのは、豚肉の加工メーカーと文字盤メーカーくらいなもので、日本人の引き揚げたあとの工業団地は、台湾の企業が賃借りをして中に入り、全体が貸工場会社みたいになってしまった。
「夏草や兵(つわもの)共が夢の跡」というのはお金儲けの世界にも通ずる現象らしく、過ぎ去ってみれば、夢幻の感があるが、熱にうかされているときは、金鉱でも掘っているような切実感がある。そうした仕事の一つに剣道具を台湾でつくろうというプロジェクトがあった。私が投資視察団を組織して、三か月に二へんくらいの割合で台湾に帰るようになると、岐阜で私が講師をつとめていた経営者グループの一員で坂井さんというのが、剣道具をつくったらどうでしょうかと提案してきた。
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