不運が重なって
また台湾の賃金が安いのが狙い目だったが、実際につくらせてみると、日本では一人で一日二着の上着を縫製するのに、台湾では慣れないせいもあって、二人でやっと一着しかできない。しかも材料を輸入するのも、製品を運ぶのも船足にたよらなければならず、注文が来てから納品するまでに、早くても三か月かかってしまう。日本内地で電話一本で一週間目には製品を間に合わせてくれるのと比べても遜色がありすぎるのである。
運の悪いときは悪いことが重なるもので、工場をスタートさせてから間もなく石油ショックが起った。トイレットペーパーの買い占めも起ったくらいだから、洋服地も暴騰して手に入らなくなった。やむを得ず韓国の第一毛繊から緊急輸入して急場をしのいだが、できあがった製品を東京へ送ると、値が高くなりすぎて引き受ける人がいなくなり、たちまち滞貨の山となってしまった。
日本側の社長は製品を輸入するだけの信用のワクが限度にきてしまい、といって信用状をひらかないと台湾側の資金繰りがつかなくなってしまう。やむを得ず、私が自分の会社で信用状をひらき、商品を引きとった。その商品をデザイナーのところへ預けておいたところ、今度はデザイナーが倒産をして、私が預けておいた二千着を借金のカタに債権者に持って行かれてしまった。
その代金もとうとう返してもらえなかったが、気がついてみたら東京の私の手元に一万五千着の礼服が滞貨として残ってしまった。本を売れというのなら私でもできるが、礼服ではどうして売ってよいのかさっぱりわからない。
私は工場を閉鎖し、解雇する従業員にちゃんと退職手当を払い、手元に残った一万五千着の礼服を三年がかりで処分した。締めて一億三千万円の赤字を出したが、皆、逃げてしまったので、泣き泣き一人で背負い込むよりほかなかった。いざというときにあてにならない点では、日本人だからといって別に変わりはないのである。 |