この地所は中野の鍋屋横丁の四メートルの私道に面した路地裏にあった。アパートでも建てる以外に方法もなさそうに思えたが、人口の蝟集(いしゅう)する超過密地帯なので、私はスーパーにでもしたらよいのではないかと思って、一階、二階が各百十坪、三階が八十五坪、四階が七十五坪の四階建てのビルを建てて、これに「立体ビル」という名をつけた。
というのは、当時はまだ東京に今のような総合スーパーがなく、衣料品は衣料品だけの、食料品や電気はそれぞれ食料品や電気の安売り屋しかなく、それを各階に入れれば、それで上から下までなんでも揃うスーパーになるのではないかと胸算用したからであった。
一階には、八王子で当時まだ小さな安売り屋にすぎなかった忠実屋に入居してもらった。二階には、もうなくなってしまったが、府中の都留屋という衣料の安売り屋がきた。三階、四階に入ってもらうつもりの日用品や電気の安売り屋はどこも断られたので、やむを得ず豊橋のオート編機という二部上場会社の東京支店に借りてもらった。
「立体ビル」としての構成はこうして最初から崩れてしまったが、建物のロケーションもよいとはいえないし、規模としても中途半端だったので、食料を除けば、どの商売も理想的とはいえなかった。そのうえ、戦後で最大の不況がはじまったので、一年もしないうちに一階を除く二、三、四階のテナントから同時に賃貸借の契約解除を申し込まれてしまった。
生まれてはじめてのヨーロッパ旅行に出かけていた私は帰路、香港に到着した途端に女房からの手紙でこのニュースを知った。さすがの私も青くなった。これで預かった保証金も返さなければならなくなるし、銀行から借りた建築費の返済もはたせなくなってしまう。ヨーロッパ旅行の楽しかった思い出はいっぺんに吹っとんでしまい、生きた心地もしないままに羽田に戻った私は、妻の顔を見ると、「もうこのまま死んでしまいたい」と言った。すると、妻は私を睨みかえしてきっぱりと言った。
「そのくらいのことが何ですか。お金には人間の生命を左右するだけの値打ちはありません」
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