とうとう手離す決心を
ところが、その頃から砂利不足が目立ちはじめ、採石場の砕石装置がフル稼働をするようになったので、トラックもブルドーザーも本業に追われてとても埋め立てには動員できなくなった。ちょうど住宅開発が宇都宮市の周辺にまで及び、山を崩して住宅地の造成をする業者がふえたので、その土砂を買って田圃を埋め立てることにした。
ようやく土地が道路並みの高さになったので、その上に小屋を建てて事務所を移した。それを待っていたように、宇都宮の都市計画が具体化し、千四百坪のうち二百坪ばかり道路に削られてしまったが、千二百坪が駅裏からの十八メートル道路に面するようになった。一躍地価がはね上がり、宇都宮市は土地ブームに沸いた。すぐ人がやってきて、土地を売らないかと言ってきた。
ここで私はどうしたものか、と選択を強いられる立場に立たされた。砂利屋は長い間の不況を脱して、ようやく景気づいてきている。しかし、砂利採取に対する規制はうんときびしくなって、河っぷちはほとんど禁止区域に指定されてしまい、わずかに河川に近い私有地で田圃の下に砂利層のあるところの採取権を買うくらいしか砂利屋の生きのびる方法はなくなっている。
それでもやっていく方法がないわけではないが、台湾から上京してきて、東大工学部に行っていた末の弟を私は宇都宮に常駐させていた。その弟が阿字ヶ浦に行って海で溺死するという突発事件が起った。台湾の荒波になれた弟が、茨城の海岸の波をなめてかかったのが事故のもとであるが、私にとってはショッキングな出来事であった。これも自分が鬼怒川で砂利屋をやろうと思い立ったことが原因のように思えた。これから先、いくらかいい目にあうこともあるかもしれないが、もうこれ以上、砂利屋にかかわりたくないという気持ちが強く働いた。
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