文学の虫が騒ぐ
私の義兄は臼田金太郎というウェルター級のボクサーで、日本拳闘界の草分け的存在であった。大正十三年のチャンピオンで、まだリングの紐が一本だった頃の試合の写真が『拳闘五十年史』の第一ぺージに載っている。
ロサンゼルスのオリンピックにも出場しており、長く不敗を誇っていたが、一回負けてそのまま引退し、引退後は臼田拳闘道場をつくって、後進の養成に尽力していた。
私の姉と結婚してからは、姉がボクサーのかもす雰囲気を好まなかったので、次第に拳闘界から遠ざかり、とうとう姉の意見に従ってチューインガムの工場の経営をするようになった。しかし、根が商売人でなかったから、商売人でない者でも商売のできた時期には何とか社長業がつとまったが、混乱期が終わる頃にはもういけなくなっていた。
結局、自分の住む家も買わずじまい、米軍人に貸す住宅建設もやらずじまいで、実際に私が東京へ出てきたのは、小説家になるためであった。
どうして小説家になる気を起したかというと、東京と香港の間を行き来するようになってから、私は『オール讀物』や『小説新潮』のような雑誌を送ってもらうようになっていた。
私のほうも、商売人でない者が商売のできた時期には結構、商売をうまくやれたが、それが駄目になると、たちまち仕事がなくなって本を読む時間がますます多くなってしまった。
日本から送られて来た雑誌の類をめくっていると、このくらいの文章なら自分にも書けそうな気がした。何でも人のやっていることを見ると、自分もやれそうだと思うのが私の悪い癖だが、そのときもすぐにそう思った。
中学から高校時代、私は文学少年だった時期があり、小説を書いたり、詩を書いたり、たった一人で活版印刷の同人雑誌を主宰したこともあった。大学へ行くようになってからは「過激思想」が先走りするようになり、文学のことは背後に隠れてしまったが、やることがなくなってくると、またぞろ虫が騒ぐとでもいうか、筆を持ちたい衝動に駆られる。
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