その場合、台湾の将来はどうなるのだろうか。当時の時点では、少なくとも平和条約が正式に締結されるまでは、まだどうなるともいえなかった。アメリカが六億の市場を見捨てて七百五十万の台湾の人たちのために正義を行うという希望的観測はもちろん成り立たないが、共産主義の蔓延をどこかで食い止めなければならないとしたら、極東の防衛線を、日本、韓国、台湾、フィリピンという島沿いにひくという軍事上の必要に迫られることは大いにあり得ることである。台湾の人たちにとって、助かる道があるとすれば、それはアメリカのそうした軍事的な必要にうまく乗った場合であろう。
事実、私が台湾から香港へ亡命した昭和二十三年の十月以降、国民政府は共産軍の追撃につぐ追撃を食らって、ついに南京から広州に遷都をした。蒋介石が一時、下野をして、李崇仁が代総統になった。
香港には華北や上海からの避難民が溢れ、政客たちの出入りも俄かに激しくなった。廖文毅博士のところへも、今まで全く連絡のなかった台湾の政客たちが人目をしのんで会いに来るようになった。その中には、丘念台という国民党で重んじられている台湾出身の有力者もまじっていた。 |