私は、私の先輩たちが事件の円満な処理をめざして中山堂で会議をしていた間も、会議場に様子を見に行っていたが、メンバーに入っていなかったので、危うく難をのがれた。しかし、あの人も拘引されたまま二度と家へ帰って来なかった、この人も行方不明のままだといったことをつい自分の周辺で体験してみると、このまま自分だけ悪夢から醒めて何もかも忘れてしまうというわけにはいかないのである。
いつまでもブラブラしていることもできなかったので、私は生活の糧を得るために先輩の紹介で台北市にある商業銀行の一つに就職をした。
その銀行の董事長(取締役会長)は大陸帰りの台湾人で、カッコをつけるために研究室をつくりたがっていた。私の先輩の一人に、東大を出て台湾総督府に就職をし、台湾人としてはお役人の出世頭と目されていたが、戦後は逆転して不遇をかこっていた人があった。
東大出で、日本時代に出世頭と目されていた人を、付属研究室のヘッドに持ってくることは、ロクに学歴もない董事長にとっては、プライドに花を添える快挙であった。私の先輩は、ついでに私も推薦し、東大出が二人同時にその風下に立つことになった。
しかし、私は鬱々として楽しまなかった。研究員として社内誌に原稿を書いたり、物価の調査を続けたが、約半年たつと今度は調査科長に任命された。まだ二十四歳になったばかりだし、肩書もそう悪くなかったし、待遇も、二か月に一ぺんずつボーナスをもらったくらいだから決して冷遇されているということはなかった。
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