| 第1回きっかけは・・・
 「評論家はいらないんだよ、評論家はッ! 反対なら代案をだしてくれよ、代案を!」
 今から約5年前の1999年11月、私はある事業の買収交渉のため米国西海岸に赴き、
 事務方として「その場」に臨んでいました。
 当時私が勤めていたオグラ技研(株)は、
 受動部品大手の親会社に追いつけ追い越せと、
 自らの株式上場を目指して事業拡大を急いでいました。
 私はといえば、大学を出てから7年間勤めた大手鉄鋼会社を退職して
 2年間国内の経営大学院に留学したあと、
 人材会社の紹介でオグラ技研に中途入社して
 半年あまり経った頃でした。
 オグラ技研を選んだのは、
 実をいうと親会社のケースが
 大学院の授業に採りあげられたことがあり、
 その経営手法に少なからず興味をもっていたからでした。
 親会社への依存度を減らすため、オグラ技研は電子部品組み立ての会社を買収したのを皮切りに、
 半導体商社を合併、他にも案件をいくつか抱えていました。
 そんな折、米国のセンサーテックという会社から
 事業譲渡の打診があったのです。
 大学院ではM&A(事業買収)の演習をやった経験があったものの、本格的なビジネス交渉が初めての経験なら
 仕事での米国出張も初めて、
 短期交換留学のみの英語はビジネスには使いものにならず、
 顧問弁護士の通訳がなければ
 話しの進展もなにもつかめなかった私が、
 なぜ冒頭のようなオグラ社長の怒りを買ってしまったのか、
 次回以降詳しくお話していきたいと思います。
 |