第四章 揺銭樹 - かねのなる木 -(2)
その2
その男が出て行くのとほとんど入れ代りに老李が入ってきた。
見ると、隆とした新調の背広を着込んでいる。
靴やネクタイも真っさらだ。
この立派な紳士から、二年前、湾仔の盛り場で、
"
のしいか"を売っていたあの男を誰が想像するだろうか。
待っていた男のことを春木が伝えると、
「待たせておかないでも、
まだ銀行から金が下りていないと言えばよかったな」
「午後にまた来るそうだ」
「じゃその時は来週来るように言っておいてくれ。
銀行の手続にいろいろ手違いがあって、
今週いっばいは駄目だと言えばいいんだ。
いま、ブローカーを走らせて、
あちこち事務所を探しているので、
僕はこれからそれを見に行く。
どうだ。よく似合うだろう」
彼は微笑をしながら、春木の前で胸を張って見せた。
「よく似合うね」
と褒めると、
「そのうちに君もつくれよ。
上等な服装をしていないと人が信用しないからね。
じゃちょっと出かけてくる」
老李がブローカーを走らせているのは嘘ではなかった。
それから毎日のように不動産のブローカーが
たくさん現われるようになったし、
それらの人々を相手に、
老李はまるで大資本家のように鷹揚にふるまい、
時々 、きらっとした凄味を見せて、
相手に自分の実力を信じ込ませる。
もともと専門学校教育を受けており、
喋らせても一人前のことをいう男だから、
そうした演技をかなり自然にこなすことができた。
もっともブローカーを出入りさせたのは、
茶行から金を取りに来る男への
牽制のためであったとも考えられる。
なにはさておき、ポケットには実際にたいした金はないのだから、
老李は言を左右にして支払を次週にのばし、
その週になると、また次週にのばした。
どうにも口実がなくなると、千ドル支払い、
次の週に五百ドル、また次の週に五百ドルと
都合二千ドル支払い、あとは手持品を売ってから、
と言っていっさい受けつけない。
というより、
もうそれ以上払いたくても金がないのだ。
身の回り品をいろいろ買ったあとだから、
おそらく三百ドルとポケットには入っていまい。
しかし、老李は糞落ち着きに落ち着いていた。
それを見ると、春木のほうがかえって妙な錯覚を起こした。
たとえその日暮しの人でも百万長者の気構えで暮らせば、
百万長者であり、
反対に百万長者でも貧乏人のように
ガツガツと暮らせば貧乏人なのかもしれない。
とすると、老李は明らかに百万長者になったようだ。
その老李のからくりがわかったのは、
四千ドルの借金を彼がきれいに返済してしまった時である。
五百箱の烏龍茶を載せた英国船が
シンガポールやボンベイの諸港を経て、
目的地のカサブランカに到着するまでに二ヶ月がたっていた。
荷物をひとつ残らず開いて見ると、
台湾の産地に茶園を所有する公司と自称するだけあって、
見本と寸分違わない茶が、
他の商社よりだいぶ安い値段で送られてきている。
アフリカ商人はすっかり機嫌をよくし、
好機逸すべからずと直ちに一万箱の追加注文をよこしたのである。
老李はふたたび信用状を抵当にして、
残金四千ドルを支払ったほか、
台湾から大量の買付けを行なった。
ただし今度台湾から到着した茶は茶骨と称する粗悪品で、
値段は前の半分にも及ばず、
別に少しばかり上質茶を仕入れてきて茶骨の表面にばらまき、
上質茶として売り付ける魂胆だったのである。
この計画を打ち明けられても、もう春木は驚かなかった。
考えてみれば、それはいかにも老李らしい手口である。
老李は公証人を買収して
上質茶という品質保証書にめくら判を押させ、
船積み後、所定の手続をすませると、
約三十万ドルの支払を受けたが、
彼の懐中にはおそらく半分ほど転がり込んだはずである。
金をつかむと、老李は鑚石山の、バラックを出て、
香港島の競馬場の近くにある豪壮なホテルへ引越しをした。
そのホテルの前には
最新型の自家用車がずらりと勢揃いをしており、
大きな一枚ガラスの扉をあけて中へ入ると、
赤い絨毯を敷きつめたサロンは冷房装置がよくきいていて、
外の暑さに比べてひんやりとするくらい涼しかった。
老李は住客名簿の職業欄に貿易商と書き込み、
原籍地はシンガポールということにした。
案内されて上がった部屋は五階にあり、
寝室と居間の二間つづきで、浴室の中はピンク一色で埋められ、
バルコニーに出ると、海が手にとるように見えた。
「ここは 1 日いくらとるんだろうか」
「七十ドルだそうだ」
「へえそんなに高いのか」
坐ると身体がそっくりかくれてしまいそうになる
ソファの中にうずくまりながら、
春木はついこの間まで、九竜城の労働者町で、
石油罐で煮た飯をうまそうに食っていた老李の姿を思い出した。
いつまでもあんな飯を食うのが厭になったので、
老李はこんな一生一代の冒険をしてみる気になったのだろうか。
しかし、それにしても、
船がカサブランカに着いたらどうするつもりだろう。
老李の見果てぬ夢はせいぜい二ヶ月の生命ではないか。
「商人というものは虎視眈々としてチャンスを狙っているから、
決してこのチャンスを逃がしやしないよ。
積荷を終えた電報を打っておいたから、
きっともう一回追加注文が来るだろう。
それが終わったら、この商売もおしまいだ」
「どうやってこの尻をぬぐうつもりだ?」
「その時になってから心配しても遅くないよ。
だいたいが民事問題で、裁判になっても長びくだろうし、
金を握ってしまえば、こっちが強いからね。
少し金ができたから、
今月から君には毎月千ドル月給を払うことにする。
その代り、今度の新しい事務所に毎日出勤して
適当に人を使って賑やかにやってくれ。
僕はこのホテルで今後の対策についてじっくり考えてみるから、
用事があったら、連絡をしてくれ。
そうそう、それから一日も早く
鑚石山を引き払ったほうがいいぜ。
貧乏な奴らと一緒に暮らしていると、とても雑音が多いからね」
もうこうなった以上はくよくよしたところではじまらない。
どうせ自分はただの使用人で、
使用人は月給をもらっている限りは
主人の命令どおり働けばいいのだ。
春木は春木なりに割りきって運命の日が来るのを待つことにした。
千ドルの月給は副経理としては決して少ない額ではないので、
彼は九竜の尖沙咀という住宅街の三階に部屋を借りて、
リリと暮らすことになった。
リリは何年も不安定な生活をしてきたあとだけに、
この新しい生活をとても喜んでいた。
この生活だって決して安定したものではないのだが、
そうして喜んでいるリリを見ると、
春木は本当のことを打ち明ける気になれない。
不安定は人の世の常で、たとえ先が見えていても、
その日が来るまでは落ち着いた気持で暮らすのが
一番理想的な生き方ではないか。
「ね、あなた、私のことを可愛がって下さるのはいいけれど、
奥さんや子供さんのことを忘れてしまっては駄目よ」
とリリは言う。
どこまでお人好しな女だろう。
春木は思わず溜息が出た。 |