中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第三章 海の砂漠(4)

どこをどう歩いたか覚えていない。
春木はポケットに百ドルほどの金を握っていた。
ネオンの輝く夜の皇后道中を彼はまるで
誰かに後をつけられているかのように、
時々後ろをふりかえったり、またふいに横町に曲がったりした。

工業原料や薬品を売る横町の家々はすでに堅く門をとざしており、
鉄の格子戸の奥から電灯の明りが洩れてくる。
冷たい石畳の道を急ぎ足で通り抜けると彼は海岸通りへ出た。

彼は1週間ほど前に
海岸に面した暖昧宿で会った女のことを思い出していた。
その宿は陸海空通というややこしい名前で、
国際港香港を根城とする人々が
陸も海も空も行くところ通ぜざるはなしという意味なのであろう。

古い建物を緑色にケバケバしく塗り立てた安っぽい感じの宿で、
そこでボーイが呼んでくれた女も同じように安っぽかった。

女はリリといい、おそらく彼と同じ
くらいの年ではないかと思われるが、
自分では二十三歳と言った。

そんなことはどうでもいいが、
年をくっているわりにはおどおどしたところがあった。

上海女によくあるかぶらのような、
ふっくらとした顔つきで、皮膚が雪のように白い。
寝台につく前に、彼女は長い間、もじもじしていたが、
ようやく決心したように、春木の前に手を出した。

前金をくれという意味であることはわかったが、
春木は急に悪戯っ気を起こして、
さっと相手の手を握ると、二、三度軽くふりまわした。
彼女は呆気にとられていたが、
彼が笑うと、自分まで笑い出してしまった。

「だって商売なんですもの」
「知っているよ」
「ならあんまりからかわないでよ。
まさか今夜はじめて浮気をするわけでもないのに」
「それがはじめてなんだ。
見てごらん、心臓がどきどきしているよ」
そう言って彼は彼女の手を自分の胸にあてた。
本当に胸は動悸を打っていた。

「じゃ仕方がないわね」
リリは観念したように、寝台の上にねころんだ。

もし春木がこの上海女に好意をもったとすれば、
それはいじらしいくらい諦めのよい彼女の気質のせいだろう。

でなければいまこうして道を歩きながら、
彼女を思い出す道理がない。
同じ女と一度以上夜を明かす習慣は
これまで一度もなかった彼である。

宿のガラス戸を押し開けて入ると、
彼は帳場を素通りして、
いきなり階段を駆け上がった。
顔見知りのボーイがいた。

「おい。りリを呼んでくれ」
部屋の扉をしめてひとりになると、彼はほっとした。
ものの五分もたたないうちに、
廊下を歩いてくるハイヒールの音が聞こえた。
「きっとまた来てくださると思っていたわ」

こんなに夜遅くなってもまだ身体があいているとすれば、
リリはよっぽど人気のない女に違ない。
しかし、彼女が心から喜んでいるのを見ると、
春木は急に不機嫌になった。

「まあどうかなさったの?」
「どうもしやしないよ」
「でも今夜はなんだかおかしいわ」
「おかしくなんぞあるものか。
それよりとても腹が減ったから、雲呑麺をとってくれ。
君も食べるなら二つだ」

やがて麺が運ばれてきた。
それを餓鬼のようになって食べている春木を
リリは傍らからじっと見つめている。

「あなた、この前、
奥さんや子供を国へおいていらっしゃるとおっしゃったでしょう。
でもあとでいろいろ考えてみたんだけれど、
あなたは家庭をもっている人のようには見えないわね」
「そんなことがあるものか」
「ええ。
でも同じ遊ぶにしても家庭のある人は
どこか落着きというか余裕というか、
そんなものがあるものよ。
あなたにはそんなところがなくて、
なにかこう海の上でもぼかぼかと浮いているようだわ」
「厭なことを言うなよ、せっかく、遊びに来たのに、
うるさいことを言うと、帰るぞ」
「ほら。そんなところがおかしいのよ。
私の言っているのはそこなのよ。」
「ちえっ」と春木は思わず舌打ちをした。
女の前で裸になっても、
自分にはまだ誰にも見せたことのないもう一人の自分がいる。
その自分を裸にされたような気がした。
莫迦のように見えても油断も隙もない女だ。

しかし、そうなると、またそれで彼は妙な安堵を覚えた。
今夜はこの女の黒髪に顔を埋めて
吹けば飛ぶような「ソア・ド・パリー」の匂いを喚ぎながら、
ゆっくりと人生を堪能しよう。
そして、明日は? 明日はまた波に任せるのだ。

「私、上海に母親をひとりのこしているのよ。
あなたのお父さんやお母さんはまだご健在?」
「いや、みんなあの世に行ってしまったよ」
彼は心にもない嘘を言った。
父親はまだ生きていて、嘉義に近い片田舎に住んでいる。
世の中が変わっても、
決して自分の生活の方法を変えない頑固な父親だ。

「じゃ、その点だけでも気が楽だわね。
私なんかなまじっか母がいるためにとても苦労するわ。
まさか私がこんな生活をしているとは思ってもいないでしょう?」
その夜のリリは少しばかり雄弁だった。

「こんな話したって、なんの役にも立たないんだけれども」
と前置きしながら、ぼそぼそと自分の身の上話をはじめた。

リリの父親は上海の交通局で永年勤めた親日家で、
戦争中に日本軍に協力したおかげで、
戦争が終わると漢奸の罪に間われた。
しかし、気の弱い父親は、
官憲が逮捕に来る前に自ら青酸カリを飲んで生命を絶った。

リリと母親は家をたたんで、
姉の家に寄寓したがその姉の一家も、
共産党になってからは、資本家として清算の対象になり、
いまでは没落離散してしまったという。

「で、君は結婚しなかったのか?」
「結婚どころじゃなかったわ。
まだ父の羽振りがよかった頃は、
私を好いてくれた人もあったけれど、
でも落ち目になると駄目なものよ。
生活のために人の世話になったこともあるけれど、
その人もやっばり封建地主とかで、土地を没収されたうえに、
首をつってしまったし、
私って人間はよっぽど悪い星の下に生まれているんだわ」
「ふん」
春木はたいして心を動かされなかった。
これに似た話をこれまで耳にたこができるほど聞かされている。
難民の話なんて、どれもこれも大同小異で、
必ず過去に華やかな時代があるものだ。
未来もなく、現在もなく、ただ過去があるだけだ。
その過去だって嘘か本当かわかったものではない。

「でも私の父なんか名もない官吏だったからまだいいけれど、
周仏海や陳公博のような人だって
みな死刑にされてしまったんですもの。
汪精衛先生もいい時に死んだわ。
あの方の息子さんもいまは香港にいるのよ」
「ほォ」
「あなた知らないの?鑚石山のバラック街に住んでいるわよ」
「本当か?」
春木は反射的に身体を起こした。
自分の住んでいるあの貧民窟に汪精衛の息子も住んでいる。
すると、不幸は俺ひとりの身の上にだけ落ちてきたのではないのか

「鑚石山の中をよくご存知?
華清池のすぐ近くに、古いお寺があるでしょう。
あの脇を入ったところよ。
その近くには汪さんの幕僚だった人も何人か住んでいるはずだわ。
畑を借りて、野菜を作ったり、花を植えたりしているけれど、
皆生活には困っているらしいわ」

「もうそんな話はやめてくれ。
気が滅入ってしまうじゃないか」
「そうね。
でも自分だけが不幸じゃないってことがわかると、
私、なんだか安心するわ」

「莫迦だな」
「ええ私、莫迦だわ。
つくづく莫迦だと思うわ」
いつの間にか、彼女は強く彼の胸にしがみついていた。





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2012年7月13日(金)

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