第二章 密輸船(1)
その3
「ふふ」と思わず笑いが春木の鼻に抜けた。
その笑いの意味が通じないとみえて、大鵬は真顔で言い張った。
「だからさ、それまでもちこたえなくちゃ駄目だよ。
石の上にも三年という言葉があるだろう。
三年ぐらいたてば、世の中が変わるかもしれないし、
そうしたら、君だって
大威張りで故郷に錦を飾ることができるかもしれない。
さしあたりは食うために僕と一緒に水汲みをしないか。
そのほうが運動にもなるし、だいいち気分が晴れるぜ」
気がすすむとかすすまないとかいっておられなかった。
生きてゆくためにはどんなことでもやらなければならないことを
春木は知っていた。
その翌日から春木は天秤棒をにない、
雨の日も風の日も、一日に八回、一粁の道を急いだ。
久しく労働に従事しなかった肩に、
天秤棒は容赦なくめり込んでくる。
最初の二、三日は仕事が終わると、
しばらく口をきくこともできないくらい疲労した。
しかも、それで得た報酬がわずか六十セントだから、
家賃を払えば、飯にありつけないし、
飯を食うと、家賃が払えなくなる。
「いまにいいことがあるよ。
それまでは辛抱が肝心だ」と大鵬は盛んに力をつけてくれる。
やはり年季が入っているせいか、
痩せて長身なわりに力の強い大鵬は水桶を担ぎあげると、
脱兎のごとく走る。
春木は息せききりながらも声を張りあげずにはおられない。
「いいことなんかあるものか。
この莫迦野郎!」
「どうしてそんなことが断言できるんだ」
大鵬は往来に立ち止まると、肩を怒らせて怒鳴りかえす。
「現に去年、僕と一緒に肩を並べて水汲みをしていた男が、
日本にいる友人とうまく連絡をつけて
いまじゃ密輸船に乗っている。
すごくお金を儲けたぞ。
近いうちに日本から帰って来るから、
そうしたら、僕も一枚加わるつもりだ」
「ふん、そりゃ耳寄りな話だな」
「洪添財(こうてんざい)という男だが、とても友達思いの奴でね。
いまに俺が出世したら、貴様の面倒をみてやると言っていたよ。
僕が資本がないから
はじめのうちは奴に助けてもらうよりほかないが、
そのうちに地盤もできるだろうし、
そうしたら、君も仲間に入れてやるぜ」
「ああ、その時はぜひ頼む」
春木はいつの間にか喧嘩腰になっている。
こうした春木の行動を老李は皮肉とも憐憫ともつかぬ
微笑を浮かべながら眺めていた。
困っている点では老李のほうがもっとひどかった。
しかし、どんな貧乏のどん底にあっても、
彼は決して参ったとはいわなかった。
まかり間違っても春木のように水汲み渡世におちたりはしない。
彼は労働者を莫迦にしている。
労働をやって金持になれるはずがないと思っている。
労働力を売って生きるくらいならむしろ飢死にすることを選ぶ男だ。
事実、老李はいろんなことを考えていた。
もし彼にわずかばかりの資本があるか、
あるいは後援者がいたら、いつかは物にしてみせたに違いない。
しかし繰り返し繰り返し失敗を重ねたおかげで、
いまではすっかり信用を落とし誰からも相手にされない。
「あーあ、いまここに千ドルの金があったらなあ」
と彼は独り言を言う。
「そしたらすぐ日本から積木をきる機械を仕入れてきて、
積木玩具を作るんだがな」
だが、春木は聞こえても聞こえないふりをした。
そんな大金は持っていないが、かりに持っていても、
老李と合作する気持は失せている。
それにいまの場合、老李を孤立させることは
彼に対する無言の復讐でもあるのだ。
老李は知っている限りの知人から
すでに借りられるだけのものを借りていた。
しかし、生きるためには、
面の皮をいっそう厚くして出なおすよりほかなかった。
交通費がないために、バスなら十分ぐらいで行ける所を、
三十分も四十分も歩いて、渡し場まで行き、
そこから十セント出して三等船客になって香港島へ渡る。
香港には若干の同郷人が貿易商を営んでいる。
そこへ訪ねて行って五時間でも六時間でも執拗にがんばるのだ。
たいてい相手のほうが根負けして、
雀の涙ほどの恵みを与えてくれるが、
時には乞食を追い立てるように追っ払われることもある。
そんな時のために、彼は常に十セントを用意している。
でないと、一哩の海を泳いで
バラックまで帰って来るよりほかないからだ。
彼は部屋へ入って来るなり、天井を仰いで叫ぶ。
「畜生!畜生!なんで女に生まれて来なかったんだ。
女に生まれておりや素っ裸になってもまだ売るものがある。
神様は不公平だ。
畜生!畜生!」
それは春木も同感だった。
この頃、春木はよく女の夢を見る。
貧乏をしてみる女の夢は切なくはかなく
それでいてどろどろと生温かい。
一日に都合、八粁の道を駆けるようにして歩くおかげで
めきめきと健康を恢復してきたのだ。
肉体ばかりが快復して、
精神の方はどこかに迷児になっているらしい。
真昼のひまな時刻に、彼はバラックを出て、
この界隈の山道を散歩するようになった。
水の少ない小川の流れを渡ると、竹薮に囲まれた尼寺があって、
坊主頭の尼さんが時々、塀の上から外を眺めていた。
尼さんの頭は同じ坊主でも、頭のてっぺんに二点、
線香で焼いたとおぼしき跡がのこっている。
その前を通る時、春木はいつも自分の頭をそっと撫でてみる。
もう髪毛はだいぶのびている。
これ以上のびると、こんどは理髪代の心配をしなければならなくなる。
尼寺をすぎて、畑の間を登って行くと、三層楼の巨大な廃屋がある。
戦争中、アメリカ軍の爆撃で壊されたまま、戦後は手入れもされず、
窓の鉄粋も破壊されたままである。
この廃屋のあたりから見下すと、
港へ出入りする船も飛行機も手にとるようによく見える。
大陸の風雲が急を告げはじめてからこの方、
交通量はますます増える一方である。
広東と香港の間には「空のバス」が定時に飛んでおり、
鑚石山の上にプロペラの音が絶えたことがない。
飛行場の手前のアスファルト道路が
二つに分かれた所にバスの終点があって、
真赤な色に塗られた大きな二階バスが
いつも三、四台止まっている。
午後になると、その道路を最新型の自家用車が次から次へと通る。
赤や緑や黄のけばけばしい原色の水泳着をきた男や女が
ハンドルを握っている。
海へ行く人々だ。
ふっくらとした女たちの胸を美しい水泳着が包んでいた。
それを遠目に見ながら、春木は妖しげな想像をしては溜息をついた。
海のすぐ近くに住んでいながら、
彼は一度も海の水に足をふみ入れたことがない。
南国の海は美しい。
きらきらと無数の真珠を埋めてでき上がったような海は
どんな怒った眼にも美しい。
だが、それがいまの彼にとってなんの役に立つだろう!
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