中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第一章 自由の虜(2)

その2

男は彼を認めると軽く会釈をした。

「あなたですね、昨夜着いた人は?」
「そうです」
「飛行機で来たそうじゃありませんか?」
「ええ」
男は彼の前まで来ると、天秤棒を肩からおろした。
飛行機と聞いて、感動しているらしい。
労働をする人のものとは思えない華奢な手をあげて、
額の汗をぬぐった。
昔は白かったに違いない額も首すじも赤銅色にやけている。

「老李とは昔からの知合いですか」
とその男が聞いた。

「いや、はじめてです」
「じゃ、老李がわざわざ台湾から呼んだわけじゃないんですか?
そんなはずがないと僕も思っていましたよ」
「李さんがそんな話をしていましたか?」
「いや、なに」
と、笑いにまぎらしながら、石油罐の釣手を持ち上げると、
台所にある水甕の蓋をとって、
その中へ勢いよく水をあけた。

「どこまで汲みに行くのですか?」
一粁(キロ)ほど先です。
水道がそこまでしかきていないものですから」
「そりゃ大変ですね。
この辺には井戸もないんですか」
「海が近いから井戸を掘っても、水がからくて駄目なんです」
「ずいぶん不便なんですね」
「でもそのおかげで、僕は飯にありつけるんですよ。
これで近くに水道か井戸があるようになったら、
その日から、あがったりだ。ハハハハ……」
空になった石油罐を担ぎ上げると、
彼は駆けるようにして路地を出て行った。

陽が大分高くなってから春木は老李に連れられて家を出た。
明るい太陽の下で見る老李は
昨夜はじめて会った時ほど陰気臭くもなければ、
年をとってもいない。
眼尻に皺が多いが、これは苦労したせいだろう。
年はせいぜい四十ぐらいだ。

二人は野菜畑の多い丘陵の坂道を歩いた。
よく晴れた日で、すぐ眼の前に獅子山と呼ばれる、
岩だらけの禿山がくっきりと雄姿を現わしている。
丘の上からは飛行場の滑走路や
海や、海の向うに聳える香港島が驚くほど近くに見える。
その間を小さな戎克船(ジャンク)が
きらきらと輝きながら走っている。

「僕がここへ流れてきたのが、
ちょうど、二年前の今頃だった。
わずか二年だけど貧乏生活の二年は実に長いものだな」
老李は感慨深そうに言った。
けさの老李は昨夜と人が違ったように親しみやすい。
陽気のせいだろうか。
それとも至るところに満ち溢れた太陽の光線のせいだろうか。

「世の中にはずいぶん皮肉な詩人がいるものさ。
僕らの住んでいるこのボロ丘を
ダイヤモンド・ヒルと名付けたんだからね」
「皮肉を越えて罪ですね」と春木が答えると、
「そうだ。全く罪だ。
貧乏人にダイヤモンドは毒だからな。
おかげで僕なんぞは毎晩毎晩ダイヤモンドの夢を見ている。
モンテ・クリスト伯みたいにね。
ざくざくと宝石の山に手を入れたとたんに
眼が覚めてしまったこともあるし、
そんな時は、無念で無念で一日じゅう飯を食う気も起こらない。
もし二年前に僕の乗ってきた機帆船が
途中でエンコしなけりゃこんなことにならなかったんだからね」

二年前、つまり一九四七年に老李は密輸船を組織して、
台湾を出発したのである。
ところが香港のすぐ近海に来てから、
エンジンが故障を起こしてしまった。
船員が総がかりで修繕したが、その甲斐もなく、
船は海上を二日二晩漂流し、
せっかく、見えていた島影が全く視界から消えてしまった。

そこへ折りよく通りかかった広東人の機帆船に曳航を頼むと、
足元を見て四万ドルの報酬を要求されたが、
このまま海中を漂流するよりはと
藁をもつかむ気持で香港港内まで曳航してもらったのである。
海事法上からいっても、
そんな多額を要求されることはないはずだが、
訴訟沙汰になり、
それが片づくまで船は仮処分に付されてしまった。

もともとが零細な資本を集めて無理算段して始めた事業だから、
こうなると、目もあてられない。
十人に余る荷主はそれぞれ勝手なことを言うし、
船の所有主は四万ドルの支払は一文も認めぬとがんばる。
しまいには船員に給料を払うことさえ事欠くようになり、
船員たちがおおっぴらに船上の機械器具を盗んでは
勝手に売り払ったので、船を返してもらったところで、
もはや運行のきかない廃船同様になってしまった。
やむをえず彼は船員を連れて、このバラックに引き移ってきたが、
有金残らず食い尽くすと、船員は一人減り、二人減りして、
結局自分ひとりだけ取り残されてしまったのである。

それでも老李は台湾へ帰る気にはならなかった。
というより、帰るに帰れないのだ。
船主や荷主とも悶着があるし、
彼自身が代表していた資本も
実は自分の親戚たちが出資したものだから、
返却を迫られるに違いないのである。

「事業なんて落ち目になれば、惨憺たるものさ。
人間は一番金の必要な時に金がなくて、
金の必要のない時に金が集まるようにできているんだからね。
貧乏なんぞ絶対にするものじゃない。
どんなことがあっても貧乏をするものじゃない。
たとえ友達を売ってでもだ」
「ご冗談でしょう」
「いや、冗談に言っているんじゃないぜ。
大真面目なんだぜ」
と老李は真顔で言い張った。

「そんなことがまだわからないのは
苦労をしていない証拠だ。
プチ・ブルだからだ。
君だって、これから何年も僕のような生活をしてみたまえ。
僕と同じ気持にならなかったらどうかしているよ。
現にあの家には二十人近い人が住んでいる。
皆貧乏している。
どうにかして貧乏から逃れようとしてあがいている。
あがいている者に道義心なんかあってたまるものか」
「そういえば、けさ、水を汲んでいる男に会いましたが、
あれも台湾人ですね」
「周大鵬(しゅうたいほう)だろう」
「いや、名前は聞きませんでしたが、
真面目そうな男じゃないですか?」
「真面目?よしてくれ」
老李は吐き出すように言った。
軽蔑の情が唇のあたりに浮かんできた。

「あんな奴のことを莫迦(ばか)というんだ。
彼奴はもと台北で銀行に勤めていたんだが、
安い月給しかもらっていないのに、
毎日毎日紙幣の束を厭というほど見せつけられて、
ついに謀叛気を起こしてしまったそうだ。
銀行のチェックを偽造して、
それを入札の時の見せ金に貸して利息稼ぎをやったというから、
なかなか小才が利いた奴だよ。

ところがある時、そのチェックを紛失して、
たまたま、それを拾った男が
銀行に現金の払い出しに来たためにばれたんだそうだ。
自分でそう言うんだから間違いはあるまい。
そこまではいいさ。
人間だから謀叛気も起こしたくなるだろうさ。
が、後がいけねえ。
一体全体、一粁の道を往復して、十五セント稼いで、
それでなんの役に立つんだ。
飯だって腹一杯食べられやしないじゃないか。
僕に奴ほどの若さと体力があったら、
若い燕にでもなって稼ぐよ。
どうせ同じ肉体労働だからね」





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2012年6月23日(土)

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