第一章 自由の虜(1)
その3
「じゃ、やっぱり政治犯か思想犯かい」
「まあ、そうです」と春木は小声で領いた。
「それなら、もうここまで来れば大丈夫だ。
香港じゃご覧のとおり国民党も共産党もないからね。
現にこの鑚石山には国民党の敗戦の将が雑居しているよ。
皆、たいして代りばえのしない難民さ」
「本当ですか?」
「君に嘘をついてどうする。
僕がくだくだと説明するよりも、
そのうちに君自身が見たり開いたりするだろう。
ここはまた違った世界なんだ。
しばらく住んでいてみたまえ。
考えが変わってくるよ。
政治なんてそんなものを考えるのがばかばかしくなってくるよ。
だってね、政治で人間が救えると考えるくらい、
甘い話はないものね。
人間は何ものによっても救われやしない。
救われやしない。
絶対に救われやしないさ、君!」
酒を飲んでいるわけでもないのに
老李は酔漢のように舌をもつらせた。
春木はむかむかしているのだが、
議論の相手になるだけの気力もなかった。
そんなことよりさしあたり今夜泊まる所のほうが心配だ。
それを言うと、老李は急に困ったような顔つきをした。
「香港にはほかに知合いはないのかね」
「ハア、ありません」
「ふうむ」
と唸ったきり老李は黙ってしまった。
壁に映ったその大きな影が
じっとひとところにとまったまま動かない。
春木の不安はしだいに募ってくる。
蒸龍の蒸気がシュンシュンと音をたてている。
彼を乗せた飛行機は暗雲の中を迷っている。
着陸しようにも下界はてんで見えない。
そのうちに燃料が全く切れてしまうかもしれない。
そうだ、このまま墜落してしまうかもしれない恐怖が
彼に羞恥心を忘れさせた。
次の瞬間、彼は夢中になって叫んでいた。
「部屋の片隅でも、廊下でも、どこでもいいんです。
しばらく泊めて下さい。
しばらくが駄目なら一晩でもいいです。
ほかに行く所がないのです」
「泊めてあげたいのは山々だが」と、冷酷な声が言った。
「しかし、家主がいいというかどうかな。
恥ずかしい話だが僕自身が、すでに何カ月も部屋代をためていて、
いま、追立てを食っているところなんだ。
その僕が部屋代も払わないで、
もう一人連れ込むのはいかにも具合が悪い。
そりゃ事情を話せば一晩ぐらいは
泊めてくれんこともないだろうが、
一晩ですむ話じゃないからね」
「部屋代っていくらなんです?」
「カンバス・ベッドを一つ置くだけのスペースが十ドル、
僕が現在借りている部屋はそれより少し広いので、
二十ドル払うことになっているが、
いまの僕にとっちゃ、
その二十ドルを捻出することさえ容易じゃないんだ」
「じゃ金さえ払えば、家主はうんと言いますか」
「そりゃもちろんだ。
金が欲しくて部屋を貸しているんだからね。
いったい君はどのくらい金を持っているんだ?」
急に身体を乗り出すと、
老李は鋭い眼つきをして彼の顔を覗き込んだ。
「いや、いくらもないですよ」
と春木はあわてて首を横に振った。
いつの間にか、
左の手が金の入っているほうのポケットを
しっかり抑えつけている。
「台湾を出る時は金を持っていたのですが、
船が厦門に着いてから盗まれてしまったんです。
運の悪い時は仕方がありません。
得体のしれない熱にうなされて、
ホテルで寝ていた間に、
トランクに入れておいたはずの金が
そっくり消えてしまったのです。
でなければ、こんなみじめな気持にならないですんだのですが」
「いくらぐらい入れてあったのかね、
まさか全財産じゃないだろう」
老李は春木がでまかせの嘘を言っているのを
見抜いているかのように、
失われた金についてたいして関心を示さない。
春木は苦しまぎれの微笑をしながら、
「もし全財産だったら、今頃は厦門で乞食をしていますよ。
身につけている金があったからよかったものの、
あの乞食のうようよしたところで
無一文になっていたらと考えるだけでもぞっとします。
そんなわけで有金をはたいて飛行機に乗ったのですが、
とんだ失策でした」
「逃げた魚の話をしたってはじまらん。
それより現実の問題だ。
君がいくら持っているか知らんが、
香港という所は金がなくては
港に身投げでもするほかないんだから、
よっぽど考えて金を使うようにしないと駄目だ。
家主には僕がうまい具合に話をして
なるべく少しですむようにしてあげるが、
二十ドルぐらいなら出せるかね」
「ハア」と春木はぺこんと頭をさげた。
この場合、老李はやはり彼にとって一種の神様に見えた。
人間の弱味につけ込むことを知っている神様は、
神様の中でも一番下劣な部類に属する。
が、こんな神様にかぎって
霊験が一番あらたかなこともまた事実である。
春木がポケットの中から皺くちゃになった
緑色の香港ドルを二枚取り出して渡すと、
神様の顔がにわかに綻びて、愛想笑いに変わった。
「本当によくよく考えてから金を使わないと駄目だぜ。
一文無しにならないうちに早く手を打たないと、
僕のようなことになってしまうからな。
まあ今夜はゆっくり休んで、
明日また考えることにしよう。
どんなことでも僕は喜んで相談に乗るよ」
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