中国株・起業・人生相談・Q&A-ハイハイQさんQさんデス-邱 永漢

「生きる」とは「自由」とは何か

第一章 自由の虜(1)

その2

ところが実際に香港に着いてみて驚いた。
手帳にしたためておいた住所を頼りに、
満州人の苦力(クーリー)に案内されて行った所は、
大邸宅街どころか飛行場のすぐ裏手の
小高い丘の上にある貧民窟だったのである。
広いアスファルト道路から石橋をひとつ越えると、
急に道幅の狭いゴツゴツした坂道になっており、
その道をさしはさんで、
木造のバラックが並びの悪い歯のように出たり入ったりしている。
彼がこの界隈へ足を踏み入れた時はすでに太陽が海に没した後で、
茫漠たる飛行場の対岸に、
香港の美しい夜景がまぼろしのように浮かんでいたが、
この一郭には電灯すら通じていないとみえ、
ところどころに薄暗い石油ランプがともっているだけであった。

「おいおい、道を間違えたんじゃないか」
彼は不安な気分に襲われながら、
自分の前をとっとと歩いて行く案内の苦力を呼びとめた。

「いやもっと奥のほうですよ」
苦力の声には絶対的な確信がこもっている。

鑚石山。
英語でダイヤモンド・ヒルという燦然たる名前で呼ばれる土地が
こんな所だろうか。
香港に覇を競う一流の富豪が住んでいるはずの住宅区が
こんな所にあるだろうか。
否、否、きっと苦力は土地に不案内な奴なのだ。
そう思いながら、彼は苦力の後を追った。

が、中へ入れば入るほど、道幅はいよいよ狭くなり、
じめじめした暗闇の中で、
売れ残りの野菜や魚肉を売る
広東人の商人たちの奇矯な叫び声が聞こえてくる。
その間を通り抜けて、さらに奥へ入ると、
バラックがややまばらになって、
ところどころ野菜が植えてある空地に出た。

「この家ですね」
と言って苦力が突然立ち止まった。

「まさか」
春木は自分の眼を疑わずにはいられなかった。
それは家というよりは山小屋といったほうがふさわしいくらい、
粗末な木造のバラックだった。
家の中にはランプさえともっておらず、
白い月光が屋根の上から路地へおちかかっている。

「李先生在不在家?」(リイシンサン ハイムハイオケ)
苦力が怒鳴ると、
「来了」(ライラ)
と奥からしわがれた男の声が答えた。
ややあってのっそり出てきた小男がいま、
彼の前に坐っている李明徴こと老李(ラオリイ)なのである。

唖然として春木はしばらくものも言えなかった。

「本当にあなたが李さんですか?」
「李明徴は私ですが、なにかご用事ですか?」
と答えた小男の声は意外に落ち着いていた。
ようやくのことで、春木が来訪の目的を告げると、
彼は少しばかりびっくりした様子であったが、
家の中へ入れとも言わずに、そのまま春木を誘って、
すぐ近所にあるこの饅頭屋へやって来たのである。

ひどく空腹だったので、
春木は息もつかずに大きな肉饅頭を三つ平らげた。
どうやら腹の虫がおさまると、
今度は新しい心配が彼の頭を占領しはじめた。
心配というよりは恐怖といったほうが正しいかもしれない。
生命が惜しくて逃げていた時は、ただ逃げることに夢中で、
それから先のことは少しも考えていなかった。
逃げおおせさえすれば、
最後には金もあり、義侠心もある男が
とこかで彼を救ってくれるような気がしていたのだ。
無意識のうちに彼は
老李をそうした仮想人物に仕立てあげていたのである。

ところがいま、彼の前に坐っている小男は金持でもなければ、
義侠心のある男でもなさそうだ。
栄養不良で、三度の飯にも満足にありついていなさそうである。
しかも、太い眉毛の下で、きらっきらっと敏捷に動く眼は、
獲物をねらう鷹のように、油断も隙もない。
現に彼の心の驚きまではっきり見すかしているではないか。

「たぶん、君は僕がここで大成功をしていると聞いて来たんだろう」
「………」彼が返事に窮していると、
「ね、そうだろう」と老李はもう一度繰り返した。
「とすると国の連中は皆そう信じているかもしれんな。
李明徴の奴、香港で大金を握った途端に、
故郷も妻子も忘れてしまった。
人間、貧乏しても正直でおられるが、
金ができると気が狂ってしまうもんだと、
そう僕のことを言ってやしなかったかね?」
返事を期待しているのでない証拠に、
彼は春木に相槌を打つ余裕をさえ与えなかった。

「きっとそうだ。そうだとも。
でなければ君のように
わざわざここまで僕を訪ねて来る者があるものか。
君はどう思うかしらんが、
これは僕にとってはちょっと耳寄りな話なんだ。
だって君、李明徴が香港で大成功をしているという話は
この僕自身がまいたデマだからね。
しかし、現実はもちろんいま君が見ているとおりだ。
これが僕の本当の姿なんだ。
食うや食わずだ。
その男が故郷の人たちの間では
どえらい成功者のように考えられているんだから
面白いじゃないか。
どうしてそんな猿芝居を打つ必要があるのかと
君は不思議に思っているだろう。
そのうちに君にもだんだんわかってくるさ。
早い話が香港くんだりまで流れて来て
乞食同然の生活をしているといわれては花も実もないじゃないか。

それよりは金を握ったら、
何もかも忘れた奴と思われているほうがいい。
嘘から出た真という言葉もあるように、
金持だ金持だと思われているうちに、
本当に金持にならんとも限らんからね。
そしていったん金持になってしまえばしめたものさ。
世間なんて、なんだかだと金持のことを悪くいうが、
結局、心の中では金持を一番羨ましがっているよ。
が、そんなことはどうでもよい。
一体全体、なんだって香港へやって来たんだ?」

相手の素性が知れてくると、
春木は真面目にいままでのいきさつを話す気になれなかった。
そんなことよりも後悔のほうが先に立つのだ。
なぜ前後の見境もなく、いきなり香港へ来てしまったのだろう。
なぜ自分は二十六歳の青年らしい分別をもって
行動することができなかったのであろう。
しかし、裏返してみれば、
こうした内省ができるのは
それだけ余裕を取り戻した証拠なのだ。
少なくともいままでのところ、彼には未来も過去もなかった。

現在という刹那、
それも恐怖に彩られた刹那が彼の前をさえぎっていたのだ。
それはたとえてみれば驀進する列車に追われながら、
一人鉄橋の上を死物狂いに走り続けるようなものである。
一歩踏みはずせば千尋の谷底だし、
逃げ遅れればあのレールの錆と消え去ることを意味する。
だから、彼は走った。
息もつかなかった。
鉄橋の尽きた所で命がけで飛び下りた。
その瞬間は助かったと思った。
だが、怖る怖る顔をあげた時、
彼は尽きる所を知らない泥沼の中に転がり込んでいたのだ。





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2012年6月22日(金)

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