第66回
生きている間は元気でいたい
若い時は、生命などあまり惜しいとは思わない。
ありあまる物は惜しまないのが道理だから、
若い時は「生命」をふんだんに持っているということであろう。
だから、「生命なんか大して気にしない」人は
まだ若い証拠といえる。
ところが、年をとってくるとだんだん生命が惜しくなってくる。
死に近づけば近づくほど、死にたくないと思うようになる。
私の父親は若い時はずいぶん遊び歩き、
女道楽もやったが、年をとって高血圧に悩むようになると、
大事をとって少しでも自覚症状があると、
あわてて床の中にもぐり込んだ。
私は十三歳の時から家を離れ、終戦後のわずかな期間しか
両親と一緒に暮らさなかったので、
実際にこの目で見たわけではないが
ずっと親の面倒を見ていた弟やその家族の話をきいて、
「人間ってそんなに生命の惜しいものかな」
と不思議に思ったことがあった。
現在でも、私はさほど生命が惜しいとは思っていない。
とすると、「まだ年をとり足りていないのか」
ということになりそうだが、
多分、人生に対する考え方に、昔と今では、あるいは、
親と子の間では、時代の違った分だけ、
違いがあるせいであろう。
私だって六十代になったのだから、
もう先がそう長いわけではない。
同年輩の者どころか、自分より年の若い者にさえ
先立たれる年齢に達している。
糖尿病で医者にかかるようになってから、
もうすでに二十年もたっているし、気がついてみたら、
年に二回、定期検査でドック入りをするようになってからもう、
八、九年もたっている。
私のようなせっかちはドックに入るのに二、三日もかかったり、
検査が終わってからデータが出るまでに
また一週間もかかったりするのではイライラする。
幸い、私の通っているドックは検査の終わったあと
三十分もすれば、すべてのデータが出揃うので、
しびれをきらさないですんでいる。
「人間ドックに行くようになったのも
生命が惜しくなったからでしょう」 といわれれば、
「そうではありません」とはいい切れないが、
「それは生命が惜しいから」というよりも、
「生きている間、元気で仕事ができるように、
自分の身体の実状を知っておきたいから」
といったほうが正しいであろう。
ふだん仲好くつきあっている友人のなかにも、
絶対に人間ドックに行かない人がある。
どうしてかときいてみると、
「万一、病気のあることを言い渡されたらショックが大きいから」
という。
病気が症状に出て、「もう駄目だ」といわれたら、
「それで覚悟をするからいいんだ」ともいう。
なるほどそういう生き方も
人生を生きるテクニックのーつではある。
しかし、私は人間はどうせいつかは死ぬものだから、
生きている間、元気でおられるためには、
どこに故障があるのか、
自分の体力の限界を知っておくことが大切だと思っている。
自分の身体にどういう欠陥があるのか、
あらかじめ知っておけば、
長持ちさせるための方法を講ずることもできるのではないかと思う。
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