第42回
実物の迫力と臨場感を
ふだん変化のない生活を送っている人でも
旅に出かけると、さまざまの刺激を受ける。
まず乗物に乗る。生まれてはじめて飛行機に乗るという人もある。
そういう人ほど初体験の印象は深い。
旅なれた人でも、バンコクに行ったら、
ダイハツを改造した流しのオート三輪に乗ってみたい
と思うだろうし、
マニラに行くと、ジープに飾りつけをした
ジプニーという乗合バスに一度は揺られてみたい
と思うかもしれない。
またサンフランシスコに行けば、
わざわざ三ドル払ってケーブル・カーに乗ってみなければ、
気がすまない。誰でも「アイレフ
トマイハートインサンフランシスコ」という歌は知っているし、
ケーブル・カーに乗った楽しい思い出が
その中に歌い込まれているからである。
そういう体験をしたいと考えるのは、若い人だけではない。
その証拠に私だってサンフランシスコに行くたびに、
おつきあいといいながらも、
一緒に行った人と必ず一度はあの電車に乗ってみる。
見ると、釣り革にぶらさがったり、
わざわざ扉の外に立って手すりにつかまっている人の中には、
私より年寄りの人はいくらでもいる。
みな楽しそうにニコニコしている。
これから先の旅程をきちんとこなして行くためには、
身体のコンディションを整えておかなければ、
身がもたないと緊張している面もあるが、
実はそうした緊張感が身体のためになっているのである。
第二に、見るもの、聞くこと、
すべて新しいことばかりである。
最近はテレビが普及してパリやロンドンはもとよりのこと、
世界の涯ての人々の生態までプラウン管の中でお目にかかるが、
それでも実際に実物の前に立った時の迫真力、
臨場感にはかなわない。
私などは、パリやバンコクは毎年のように出かけるが、
勝手知った町のつもりでも、行くたびに新しい発見がある。
見なれてくると、細かいところに気がつくようになり、
同じ通りを歩いていても、
おや、こんな店があったのか、こんな物を売っていたのか、
と新しい発見には事欠かない。
第三に、言葉が通じないことである。
自分の国の中にいると、旅をしていても言葉が通じない
ということがないから、
さして不自由は感じない。
ところが、一歩、海の外へ出ると、
日本語だけではどうにもならなくなる。
ヨーロッパやアフリカに行ったら、
言葉の通じないのは当たり前だが、
すぐお隣の韓国や台湾に行っても、
道を尋ねるだけでも苦労をする。
顔形もそっくりなのに、
話しかけても一向に通じないところがどうにも腑におちない。
そこではじめて、自分たちの住んでいる世界だけが
世界でないことに気がつく。
これからその土地で仕事をしなければならない人、
その土地に留学をしたいと思っている人なら、
何としてでも言葉を覚えようとするだろう。
私たちのような旅の人となると、
とりあえずの用が足せればよいと思うから、
英語の通ずる人と話をしようとするし、
でなければ、話の通ずる人をつかまえて通訳をしてもらう。
しかし、言葉が違えば、物の言いまわしも違うし、
その分だけ発想の過程も違うことはいやでも納得させられる。
理解するとは、お互いによく似ていることを
理解することではなくて、
お互いに如何に似ていないかを理解することである。
人間は似ていることには違和感がないから、
大して想像力を刺激されることはないが、
見るもの、きくことすべて新しいこととなると、
興奮して時問がたつのを忘れる。
言葉が通じないということだけでも、
大きな刺激になるのである。
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