第34回
「動」がもたらす張り合い
動静という言葉があるように、
世の中には動くものと静かにしているものとがある。
天気、人気、景気はすべて変転きわまりのないものであり、
それに対して人間の固定観念は
ひとつのところにとどまって動きのないものである。
人間の行動一つ例にとっても、若い時はよく動き、
行動半径も拡がるが、年をとると次第に動きが鈍くなり、
小さな円の中から外へ出られなくなる。
とどのつまりは、小さな骨壷の中に入ったきり、
まったく動きがなくなってしまう。
ということは動きがあるのが生きている何よりの証拠であって、
物の考え方の上でも、身体の運びにしても、
できるだけ動きのあるように心がけることが、
力一ぱい生きていることになるのである。
そういった意味では、仕事の上で
未経験の新しい分野に絶えず挑戦をするのも「動」であり、
また行ったことのない国に旅行に出かけ、
見聞を広げたりするのも「動」の部類に属する。
長くサラリーマンを勤めてきた人の中には、
同じところにいて、定年になるまで
同じ机に向かって働き続ける人もあれば、
辞令一本で日本国中、あるいは、世界中を走りまわる人もある。
勤務の部署が変わって、生産に従事していたかと思えば、
今日から営業に配属されるということもある。
かと思えば、商社やデパートのように
取扱い商品が多岐にわたっているために、
鉄や家電製品を扱っていたのが、
食品や繊維に配置転換されることもあるし、
製品を扱っていたのが原料部門に移されて、
ボルネオやサウジアラビアに派遣させられたりすることもある。
文明からほど遠い地域に人事異動させられたら、
それをきいただけで笑いが顔から消え去る人もあるが、
本当はどんな辺郡な土地に派遣されても、
またどんな不自由な生活をさせられても、
生命を失うような目にあわされない限り、
新しい経験を積むことは常に興奮を誘う出来事である。
一見つまらないことでも、好奇心を抱くか、
まったく関心を持たないか、本人のとる態度ひとつで、
つまらなくなることもあれば、面白く映ることもある。
つまらないことの中に変化、あるいは、変化の可能性を発見し、
新しい可能性に挑戦することができれば、
島流し同様の僻地生活にも結構、ハリが出てくる。
つまりどういう環境におかれても、
「動」の人は「動」の動きをし、
死んだ人は生きているうちから
死んでしまっていることが多いのである。
もともと死んでいる人は、職場にいても死んでいるのだから、
退職後、俄かに生きかえることはとても期待できない。
かと思えば、第一線で現役として働いている人でも、
定年退職をした途端に生気を失って動きの鈍くなる人がある。
サラリーマンのような、上司の命令一つで動くことに慣れた人は、
命令してくれる人がいなくなると、
黒子のいなくなった文楽人形のように
楽屋裏で塵に埋もれてしまう。
だから死ぬ前からもう死んでしまっている状態に
おちいらないためには、
退職後も動きを失わないように、
絶えず神経を使わなければならない。
「お金よりも仕事のあるほうが大切」といったのは、
仕事を続けておれば、動きが持続し、
人間としていくらかでも張り合いのある生活が望めるからである。
|