第7回
一年間のサラリーマン体験
私のサラリーマン体験は、後にも先にも、一年間しかない。
終戦の翌年、台湾へ帰って自分で仕事をやっていたが、
仕事がうまくいかなくなって、
さしあたり飯を食うのにも困りそうになった。
やむを得ず、東大時代の先輩に頼み込み、
その口ききで銀行の研究室というところに入れてもらった。
銀行といっても、終戦後の台湾で、
大陸帰りの台湾人の政治家が引き揚げる日本人から接収して
経営していた小さな政府系商業銀行であった。
本来なら研究室などつくるほどのスケールではなかったが、
その頭取は見栄坊なところがあって、
自分よりずっと学歴のある人を部下に使うことによって
自分に箔をつけたがっていた。
私の東大の先輩は、日本人が台湾を統治した時代に、
台湾人ながら、一高、東大を卒業し、
若くして台湾総督府の金融課長として
出世街道のトップを切ってきた人だった。
日本が戦争に負けたおかげで、
ご多分にもれず失業の憂き目にあっていた。
銀行の頭取はなかなかの野心家であったから、
私のこの先輩に目をつけていて研究室の主任に迎えた。
世が世なら、こんな人に使われる身分ではなかっただけに、
多少、不本意な気持ちもあったに違いない。
プラプラしていた私にも声がかかって、
抱き合わせで研究室に採用してもらった。
研究員といっても、
これといった特定の仕事があるわけではなかった。
戦後、まだ猛烈なインフレのただ中にあって、
黄金やドルや市場で売っている卵や豚肉に至るまで、
毎日のように値上がりを続けていた。
三輪車に乗って、そういう店に出かけて行って、
どのくらい値が上がったかきいて帰って報告書を書いたり、
銀行の機関紙に寄稿をするくらいの仕事しかなかった。
それでも待遇は悪くなかった。
窓口で朝から晩までせわしく金銭出納をやっている
普通の銀行員より給料が高かったし、
インフレのさなかでも銀行の儲けはなかなかのものだったので、
二カ月にーぺんボーナスが出た。
サラリーマンという稼業は、大したこともやっていないのに、
ちゃんと飯が食えるだけのお金をくれて、
そう悪くない商売だなと思った。
半年たつと、調査課長に任命された。
ニ十三歳の課長というのは異例の若さで、
すぐ隣の列の統計課長は四十何歳だった。
東大出というのは日本が台湾を統治した五十年間に、
全部で百人しかいなく、半数が医者で、
文科系は寥々たるものであったから、
その稀少性に頭取のほうが騙されたのかもしれない。
肩書きは変わったが、私のやる仕事が変わったわけではなかった。
ただ役付になったから、
手当てがつくようになり、収入は一段とふえた。
もし私が組織の中で、上役の命令に従って
動くことに耐えられる性格だったら、
あるいは私はそのまま銀行に残り、
支店長などを遍歴して役員になったり、
頭取になる道をそのまま歩いたかもしれない。
しかし、戦後の台湾は、
中国大陸から占領者として乗り込んできた連中と、
台湾に昔から在住している台湾人の間に、
政治的な軋轢が絶えなかったし、
若かったせいもあるが、正義感に燃えていた。
私は国民政府に反旗をひるがえして、
「台湾の独立」を主張したりしたので、
あやうく逮捕されるところをタッチの差で、香港に逃れ、
以後、風来坊の生活を送るようになって、
二度と再びサラリーマン生活へ戻ることはなかった。
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