“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第217回
日本酒の造りの歴史 その7

灘酒の革新

池田、伊丹、鴻池、に加えて
新興酒造りの地、「灘郷」が主産地となり、
江戸へ送る酒は「下り酒」と呼ばれて、
帆船による海上輸送が開始される。
最初は船問屋の「菱垣廻船」を利用していたが、
元禄の頃から専用のより早く安定して輸送できる
「樽廻船」に変る。
「下り酒」とならなかったものを指していったものが
「くだらない」という語源になったという説もある。

灘郷の名は享保九年(1828年)に登場している。
灘酒は宝暦四年(1754年)に酒造株制が廃止されて
「勝手造り」となったことをきっかけに、
伊丹・池田の衰退を横目で見ながら、隆盛を迎える。
安永・天明年間(1772〜1789年)には
上方出荷連合組織の主翼となり、
文化文政年間(1804〜1830年)には江戸期最高の発展期となる。

灘酒隆盛の要因としては、
六甲おろしの寒風や海上交通の要点、
勤勉な丹波杜氏の労働力確保などの
立地的な優位さがまず上げられる。
次に、西宮での宮水の湧き出し発見、
優良な播州米の入手などの原材料のよさが後押しをし、
また、経営方針も進取的で、原料米の経済購入、大量生産など、
灘全体で協力と自由競争を巧みに行うことによって、
経営基盤もしっかりとしていたこともある。

しかし、灘酒最大の発展の理由は
酒造技術改良の努力による酒質の向上であろう。
宮水は桜正宗の創始者である山邑太郎が発見したが、
それには何年にもおよぶ
西宮と魚崎の蔵での酒質比較実験による努力のたまものだ。
また、灘では六甲山系の急流を利用して、
水車精米を行うようになった。
伊丹、池田ではまだ足踏み式の精米を行っていて、
普通は八部搗きの精米歩合92%程度、
努力しても一割程度の搗き具合であった。
これが、灘では水車動力により
連続して精米を50時間も続けることが可能となり、
標準が一割五部搗き。
その後、天保年間(1830〜1844年)には
二割五部から三割五部搗き(精米歩合75五%〜65%)
の真っ白な米ができるようになっている。
これは、今日の純米酒の精米歩合に近いものだ。

また、灘では寒造りへの集中化を推進している。
当時の酒造りには、季節に応じて、
「新酒」、「間酒」、「寒前酒」、「寒造り」、「春造り」
などの秋の彼岸から春の彼岸までをかけていた。
何故、早くから醸造作業を行っていたかというと、
市場確保と資金確保の経営的な観点、
それに、新米より古米のほうが安く、
新米を磨きが少ない足踏み式精米にかけただけでは、
発酵が起こりにくかったことによる。
灘では、高精白の米を用いて、
細菌汚染の心配が少ない寒い季節に造りを集中することによって、
品質、経済性をともに向上させることを可能としたのだ。


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2005年6月21日(火)

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