第218回
日本酒の造りの歴史 その8
醸造学の開始と酒造近代化の夜明け
明治になると
酒造りを科学として捉えることの重要性が認識され、
明治政府は海外の醸造研究者を日本の大学に召集した。
東京大学の前身の東京開成学校に
明治7年に御顧教師として呼ばれたイギリス人のアトキンソンは、
世界で最初に清酒造りの調査研究を行い、
酒母、清酒、酒粕の分析を行っている。
アトキンソンの研究は明治の若い日本人学徒を刺激し、
清酒醸造のメカニズムが次第に明らかにされていく。
明治37年には国立の醸造試験所が開設される。
清酒の酸敗を防止し、
安定して品質のよい酒造りを
各地の造り酒屋が行えるようになるために、
国費をかけて醸造の研究を行い、成果を蔵元に知らせ、
指導を行おうという趣旨である。
そして、酒税の税源確保の観点から、
大蔵省が所轄官庁となった。
この時期から、大蔵省の醸造試験場が
全国の造り酒屋を指導する形態が生まれたわけだ。
醸造試験場は次々と研究成果を挙げたが、
これまでの生造りをより簡略化した、
山卸し廃止(山廃)と、速醸も大きな成果の一つである。
今日の清酒造りの大半は速醸だ。
また、腐造・酸敗の研究が飛躍的に進展して、
全国の蔵の安定した造りの確立に
醸造試験場は多いに貢献している。
昭和初期になると、米国から竪型精米機が導入され、
精米度が飛躍的に高くできるようになる。
流通も樽や甕、大徳利の代わりにガラス瓶が採用され、
劣化を防ぎやすくなった。
伝統の酒造りに近代科学、近代技術が注入され、
日本酒は飛躍的に品質が向上したわけだ。
このように、日本酒の酒造りは万葉の時代から
様々な日本の歴史的な背景をもとに発展進歩してきた、
日本の伝統技法といえる。
この千年を遥かに超える酒造りの伝統が、
太平洋戦争を機会に壊されてしまい、
地酒が浸透してきた現在でも、まだ修復がつかない状況にある。
参考文献:
坂口謹一郎監修「日本の酒の歴史」研成社 1977年
灘酒研究会「改訂灘の酒用語集」 1997年
吉田元「江戸の酒」朝日選書 1997年
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