“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第216回
日本酒の造りの歴史 その6

元禄に近代の酒造りが確立される

続く江戸時代、それも元禄の頃には
経済の進展とともに、
小さな造り酒屋が大規模な酒屋へと成長発展して、
今日の日本酒業界の原形ができあがった時代だ。
「南都諸白」に次いで、伊丹、池田の諸白、
鴻池の豊田酒が京、難波、江戸で飲まれるようになる。

都市では商工業が盛んになり、
新たな産業として酒造りが飛躍的な成長をとげる。
造り酒屋も最初は数石から数十石程度の
家内工業のようなものであったのが、
都市の近代化にともなってだんだんと大きくなってくる。
幕府及び各藩は貢納米の換金化の把握のため、
造り酒屋を掌握しようとする醸造規制の令をたびたび出した。
幕府は酒造統制を目的として
明暦三年(1657年)に酒造株制を開始し、
再三統制強化と緩和を繰り返すことになる。

新酒禁止令は酒造りを寒造りに集中させることとなって、
重税を課せられ、
生活まで規制されていた農家からの
格好の労働の場を提供することとなった。
これを機に、杜氏を頂点として、
頭、麹屋、屋、釜屋、上人・中人・下人、飯焚などの
専門技術者の役割分担が定まった、季節労働の蔵人組織が確立し、
今日に至る。

酒造りは諸白造りが発展し、原料水、原料米が厳選され、
足踏み式の碓で精米する労働者群である碓屋の組織も確立された。
麹造りは現代の清酒醸造と同じ
二日一夜で出麹する方法がとられる。
また、この頃に酵母を育てるための
「生(きもと)造り」が開発されている。
半切り桶に水、麹、蒸米を加えて、
「山卸し」と呼ばれる、櫂でかき混ぜる「磨り」作業を行って、
硝酸還元菌による亜硝酸生成と乳酸菌の増殖を行い、
酵母が育ちやすい培地を作る
伝統的な酒母造りが完成したわけだ。

このように、元禄の頃に現在に至る、
日本酒独特の高度な酒造技術が完成し、
それを支える季節労働の蔵人組織による
寒造りが行われるようになった。
当時は醸造の科学的な仕組みは明らかでなかったので、
腐造・酸敗が起こりやすかった。
それを防止するために、麹造り、造をしっかりと行うなど、
雑菌を排除して逞しい酵母を育てることが必然であった。

現在のように、醸造学が発展し、醸造設備が近代化されると、
腐造・酸敗を容易に防止できるようになった時代では、
やわい酒を安易に造ることが多くなっているように思える。
昔の真摯な酒造りを思い出して、
しっかりとした酒造りを励行するようにして欲しいものだ。
なお、江戸の後期には庶民が燗を飲む習慣も定着してきた。


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2005年6月20日(月)

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