“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第214回
日本酒の造りの歴史 その4

宮中の酒造りの開始と寺院による酒造りの進化

奈良時代後半から平安時代になって宮中の酒造りが確立する。
927年に全五十巻が完成した「延喜式」には、
さけのかみ酒造司で酒造りが行われたことが詳細に記されている。
しかし、この頃はまだ大陸の酒造りの影響が強い。
日本独自の酒造りは鎌倉時代に入ってから確立される。
鎌倉時代に武士が台頭してくると
自家製の「濁酒」がすたれて、造り酒屋が生まれる。
南北朝時代では朝廷や幕府の財政難から
酒税がかけられるようになる。
米が集積される京都で造り酒屋が発展し、
市内の造り酒屋は三百軒に及んだそうだ。

寺院でも「僧坊酒(そうぼうしゅ)」と呼ばれる酒造りが盛んになり、
酒造りの技術は多いに発展する。
欧州におけるワインやビールの発展の歴史をみても、
修道院が醸造技術の発展に多いに貢献しているので、
類似した状況が日本酒にもあったわけだ。
坊主は酒を飲まないという戒律を設けるが、
それが密かに破られる。
神をしのぐ酒の魔力ともいえる。
それだけではなく、広大な寺院の敷地と、
酒造りの原料を準備できる
経済力、調達力を寺院は持っていたので、
自ずから酒造りを開始して、
寺院の経済の助けにも貢献することになる。

河内、和泉の国境に近い
河内長野市天野町の天台宗天野山金剛寺で醸造された
「天野酒(あまのしゅ)」は高い評価を得た。
また、奈良の菩提山正暦寺では、
現在の速醸(もと)の原形となる
「菩提泉(ぼだいせん)」を売り出し
「奈良酒」として有名になった。
現在でも奈良県は、
油長酒造の「風の森 菩提(もと)」のように、
昔の酒母造りを採用した日本酒を造っている蔵元が多い。
他にも奈良では「一乗院の末寺中川寺」、
「長岡寺」などの僧坊酒が盛んに造られていた。

それに「火入殺菌法」「三段掛け法」などが生まれる。
「火入殺菌法」は
パスツールが「加熱殺菌法」の実験を
初めて行ったのが1862年だから、
その三百年前に同じことが我が国で行われていたわけだ。
中世の酒造りは技術水準が高く、
我が国独自の米と麹による酒造りが確立しつつある時代といえる。
また、この頃には宮中で「十種酒」という利き酒大会や
「十度飲」という早飲み大会が催されていた
という記録もあるようだ。

木灰による清澄技術もこの時代に確立されたようだ。
造り酒屋の主人に叱られた丁稚が
腹いせに醪のなかに木灰を投げ入れて家を出て、
その結果、その酒が澄んで綺麗になったのが、
清酒の始まりとする逸話もまことしやかに伝わってはいるが、
これは誤りだ。
この頃の清酒(きよざけ)が清酒(せいしゅ)に等しい
という誤解から生まれたもので、
木灰は滓引きの技術の一つとして、
この時代に確立されたものである。

麹造りが、酒造りとは別に行われるようになったのもこの時代で、
麹製造業者である
北野天満宮などの「麹の座」が独立してできてきた。
「麹の座」はその後、
酒造メーカーや足利幕府との確執から消滅する運命をたどるが、
麹菌を供給する「麹屋」が独立して存在するのは、
この頃の「麹の座」の伝統を受け継いでいるからと思われる。

いずれにしても、鎌倉時代には
今日の日本酒の製造技術の基盤が確立されていたことになる。


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2005年6月16日(木)

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