第12回
日本人の江戸前、中国人の山珍海味 その3
※前回の終わり
藩主の食膳に並ぶものと、
足軽の食膳に並ぶものには鯛とサンマの違いはあったけれども、
共に近海でとれる魚であることに変わりはなかった。
※続き
目黒のサンマのような落語もあったから、
そのどちらがうまいかときかれても
返事に困ってしまう。
強いていえば、ふだん自分らが食べられないものが、
日本人のうまい物といったらよいだろうか。
日本料理の真髄は、よい素材を選ぶことと、
素材の味をうまく生かすところにある。
だから新鮮さとか、どこでとれる素材であるとか、
どんな季節にとれるものであるかとかいったことが問題になる。
あとは庖丁さばきのよさとか、
目を楽しませてくれる器や配色のよさで料理人の腕がきまる。
中華料理が素材三〇%、腕七〇%であるのに対して、
日本料理のそれは
ちょうどその逆になっていると思えば間違いない。
日本料理の材料もごく限られたものだし、
その味っけにも限界がある。
味に対する日本語の形容詞が
ごく限られているのをみても領けることである。
たとえば、漢字が大陸から伝来したあとも、
甜(舌の先で感ずる甘味)と
甘(ノドで感ずる旨さ)の区別は日本語にないし、
唐辛子の辛さと塩の辛さもいまだにごっちゃになっている。
せんべいを噛むのもカリカリなら、筍を噛むのもカリカリで、
中国語のような使い分けはない。
言葉は必要によって生まれるものだから、
日本語に味の形容詞が少ないのは、
日本人の食生活が必ずしもバラエティに
富んだものでなかったことを物語るものである。
にもかかわらず、
日本人が味に対する鋭いセンスの持ち主になれたのは、
魚を中心とした料理で蘊奥をきわめた実績があるからである。
日本料理の味つけは単純だが、
中華料理やフランス料理のエキスパートがそれを一口、
口に入れてみて「これは大したことないや」
「こんな味つけじゃ料理のなかに入らないや」
と言ってバカにするようなことはまず絶対にないといってよい。
同じ素材を、違った角度から攻め込んで
道を極めたというのが日本料理である、
といっても過言ではないのである。
だから、いったん日本人が食事のために
大枚をはたけるようになると、
東京、大阪などの大都会で料理屋の数も
種類も急速にふえたが、
その内容についても
世界中のどこの大都会にも負けないようになった。
日本人も中国人も共に味にうるさいグルメの種族であり、
今後、中国の経済が発展し、
日本のあとを追うようになったら、
同じことが中国にも必ず起こる。
しかし、中国人、日本人の双方とも
グルメの資格があるといっても、
中国人のグルメぶりにはかなりのひらきがある。 |