分配より生産が優先することが立証された
日本の企業は株主の所有を離れた「天下の公器」
富の分配が比較的凸凹のないように平均化されたことについては、日本の税制が大きな役割を果たしているが、仮に税率があれほど急勾配になっていなかったとしても、さして違いのない結果になっていたに違いない。というのも、日本の産業構造が多くの人々の共同作業を必要とするシステムになっていて、一握りの資本家だけで利益を壟断できる仕組みにはなっていないからである。それどころか、戦後、資本金一九万五○○○円からスタートした大部分の株式会社は、個人か、家族の掌中にあったあいだはともかく、スケールが大きくなって従業員が三○○人、五○○人とふえるにしたがって次第に個人のものでなくなり、たとえ所有が個人のものであっても社長の意のままにはならなくなった。労働組合が結成され、組合との団体交渉が決裂して、労資間の関係がギクシャクするようになると、「社長は会社を私物視している」と批判されるようになる。もともと個人の私物だったものが、スケールが大きくなったというだけの理由で、私物でなくなってしまうのが時代の趨勢だったのである。したがって日本では、企業を自分のコントロール下に残しておこうと思えば、企業そのものを家族労働でこなしていけるか、従業員の数を大型バス一台に乗せ切れる程度のスケールにとどめておく必要がある。その程度のスケールにとどめておいても立派にやっていける商売はいくらでもあるし、そうすることによって資産をつくることができれば、名実ともに金持ちの部類に入る。ところが、世の中にはスケールを大きくしなければやっていけない業種がたくさんあるし、自分がその気でなくとも、同業者とのシェア争いに打ち勝っていくためには、資本も従業員もある程度大きくしていかなければならない性質の業種もある。そういう業種に従事している経営者は、資本調達をするためにも、また人手不足の進行しているさなかでより多くの従業員を確保するためにも、株式を上場して知名度をあげる必要に迫られる。一度、株式を上場すると、たとえ一族で過半数の株式を所有していたとしても、その他大勢の株主を納得させる経営をしなければならなくなり、企業は個人の手を離れて「天下の公器」へと近づいていく。創業者がまだ企業を支配していて、創業者が株主を代表しているあいだは、それでもまだ株主の利益はいくらか尊重される。 |