しかし、以上述べたようなごく初歩的な対策ですら国内で実行に移される可能性ありや、ということになると、ほとんど絶望的とみたほうが正しいだろう。流通に介入することはおろか、農産品輸入の自由化にちょっと門戸をひらいただけで、政府は農民から攻撃される。外国人が日本へ入ってきて流通革命を促進するチャンスなどまったく考えられない。とすれば、今後も日本では物価高が続くだろうし、それがせっかくの賃金高を相殺する傾向に抜本的な変化は起らないだろう。それどころか、物価高のまま、日本の消費に大きな変化が起りつつある。一つは高級化噌好への路線転換であり、もう一つは外国へ行ってお金を使う人がますますふえるだろうということである。
もし国民の消費能力が低水準に放置された状態で物価高が起れば、人々は物価に敏感になり、少しでも安いところを探して物を買おうとするだろう。また将来、物資が欠乏して高くなることをおそれて買い溜めをするだろう。年間二五%もインフレの起っている中国大陸では、現に民衆にそういう傾向がみられる。ところが、日本のように、すでに国民の平均収入が最低生活を維持するに必要な金額をはるかにこえてしまっている国では、国民の大半が物価に鈍感になっている。米代がいくらで、地下鉄や
JR のバス代がいくらかといったことは、もはや人々の日常生活を
おびやかす材料でなくなってしまっているのである。
こういう国では、価格が需要と供給のバランスによって決定されるとはとても思えない。
輸入牛肉の輸入価格は安いけれども、国内に入ってくると、三倍、五倍にもはねあがる。生活に余裕のできた人々は、安い輸入牛肉には目もくれず、そのまた三倍も五倍もする神戸牛や松阪牛を買うし、こうした牛肉を使う高級ステーキ屋に食事を楽しみにいく。生活に必要な日常品は、すでにその加工に使われた原材料の価格から影響を受けなくなっているので、原材料が下がっても、製品の値段が下がらない代りに、原材料のコストが上がっても、製品の値段にはそれほどひびかない。こうした物価構造が定着すると、「この製品にコストがいくらかかったから、このくらいの値段をつけたらよい」といった発想は成り立たなくなる。「この製品はいくらの値段をつけたら売れるから、この値段で売ることにしよう」といった発想が主流を占めるようになる。安いトマトより、うまければ、三つで五○○円もする完熟トマトを買う人が多くなるし、一次産業から三次産業まで高いものほどよく売れるという高級化噌好が定着してしまっている。物価は需要と供給のバランスによって決まるといった原始的な価格理論は、
少なくとも今の日本では通用しなくなってしまっている。
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